DIARY

パラダイス銀河

#020

もろもろの哲学は、いずれどこか遠くへ行ってしまう。

おだやかな絶望を見ている間だけ、生活にむしろ意味は宿る。

 

ホームレスバンドが地下鉄で演奏しているのはマイルスデイビスの"Four"という曲だった。僕はイヤホンを外してしばらく耳を傾けた。濁った和音と独特のシンコペーション。心臓の拍動と共鳴するなんてありえないのだけど、やっぱり楽しくなってきてしまう。気分が良くなりかけた頃に電車は到着した。

等間隔で設置された地下鉄のあかりが目の前をほとんど線になりながら流れていく。移動という行為には目的地が伴うのだけれど、目的地に目的が伴わないことや、目的の目的が失われて見える場合が、良くある。というか全部そうなのだ。月火水木金土日と滑っていく毎日の中で突然それはやってくるといつかのフランス人は言う。

ふと、舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土日、――こういう道を、たいていのときはすらすらと辿っている。ところがある日、≪なぜ≫という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてがはじまる

物理的な僕に宿る物理的な精神。僕は決して10代の頃に抱いた’なぜ’を克服できてなどいない。それらは悪趣味なカタチで、忘れた頃にやってくる。生活の隙間、場所へと向かう時間の中。説得力を持たない虚無感が景色の表面に覆いかぶさって、思考は限界まで分解されて床に並べられ、それぞれに根拠が掲げられた後、その根拠には根拠などないことを知らされる。それは感覚的なものではなく、むしろ論理的なもののはずなのに、論理的なものはどこまでも僕の感情なのだということ、正しさはありえないこと、そう言い出すことも言葉のせいだということ、そういう気持ちがパッケージ化されて一瞬でやってくる。僕は忘れてなんていない。ずっと流れているどうしようもなさは、僕の中で流れている限りどうしようもなさですらない。正しさはやってこない、意味も、充足も。わからないまま終わるなら問うことをやめようと言い切る潔さをどこかで覚え損ねた僕は、意味などなければやってくる価値のすべても全くの絵空事だということを確信しながら、それらを血眼で追いかけている。プログラムされた基本的な欲が突き動かすこの体。この体自身がそれら欲の動機を打ち消し続けているにもかかわらず、やはり僕は止まれないでいる。自殺する意志もなければ人間的な手段で答えを出す気にもなれない、信条がある訳でもない。ただ最も基本的な欲が僕自身の文脈を伝って生活の中を暴れて、もうほとんど僕を食い殺している。

 

"論理的"に無限後退を続ける僕の問い。その論理はやはりあらゆる意味で感情的なのだという解釈のせいで、分解され尽くしてそのあと論理的だと自らに言い聞かせて得ることのできる矮小な納得感すら手放してしまう。ただ一つの見え方、解釈にすぎないというところに全ての問いは吸い込まれる。この大きな諦め、一つのピリオドであるはずの場所も、その”論理”によって自壊を繰り返している。僕はまた「それも感情だ」というラベルを馴れた手つきで貼り付ける。絶対的な第三者がいればそれは解決するように思えるだろうがそんなものは今のところいないし、仮にこれから現れてもそれはまた僕の解釈に依ってしまうこととなる。そのモノが絶対的な否かにかかわらず僕を納得させる、さらに第三者的な存在が出てこないといけない。となるとさらに無限に後退して、結局は純度100%の納得も正しさもなく、それらは1か0かという次元ではなくただそこにあるだけということなる。僕という視点があって初めてすべては判断を受ける次元まで降りてくることになり、僕の視点は、生物学的に人間が持つ傾向性と、個人的な歴史によって形造られた解釈の論理構造から成っている。それらに触れて初めてあらゆる物事は、正しさのフィルターにかけられる。真理などこの世にないということではなく、真理が存在しないはずの世界(そう思うこともまた僕という1人称から外で保証はされていないけれども)を、真理という概念をもつ個体を通して見てしまっていることで、それは歪んだり、整頓されたりする。僕にとっての是非から逃れられない時点で論理的もヘッタクレもない。それは拡大され、人間という種単位でも言えるかもしれない。人間にとっての見え方の中での整合性に準じて僕たちは真理だの論理だのと仄めかしているけれど、本来それが示唆するべき最もピュアなカタチでの物理的な真実は、僕たちから遠いところにあるどころか、ほとんど幻想かもしれないという危うい地盤の上でしか存在を許されず、永遠に答えにたどり着かない平行線の中で冷え切っている。

 

意味も価値も正しさも幻想に過ぎない、しかしこれらの言葉が捉えるある種の気配は、僕が人間だから感じるのかそれとも本当に何かの片鱗に触れているのか。どっちにしろわからない。

 

ふー ちょっとすっきりした 

 

 

 

 

#019

音楽が耳障りで仕方がないけれど、体に力が入らないのは僕だけじゃないらしく誰も止めようとしない。流れるように過ぎていく街の景色が時間に追いつかず、抽象へと引きずられていくのを窓にもたれ掛かりながら眺めている。僕は夢を見ているのだ。

 

 

ブルックリンブリッジを歩いて渡る。川の向こうに浮かぶ摩天楼を見るたびに僕が存在していること、人間がどういうものなのかわからなくなって、それはなぜだか宇宙の大きさとかにまで繋がってしまって、行き場を失った疑問符を連れたまま僕は、雑踏の中に呑み込まれる。

雨だってお構い無しに、傘もささずに待ち合わせの場所へ向かう。メトロに向かう途中、地元紙を2ドルで買う。店主のタバコの銘柄が土曜日だけ違うのはなぜなのかずっと気になっているのだけれど、ずっと聞けずにいる。相変わらず無愛想だ。通りの角からマリファナとインド料理の匂いが混ざってやってくるいつもの交差点。僕は人を待っている。雨を吸った新聞紙が少し重い。

 

ごった返す人混みの中から急に現れたその人は、髪をバッサリ切っていた。前会ったのは半年も前なのだ。人はすぐに変わってしまう。例えば過去を振り返る時、そこにある文脈や細かい表情までは思い出さない。断片的なシーンを今の僕が好き勝手に取り出しては、色付きのプロジェクターで流すのだ。

チャイナタウンにあるミルクバーなるものに誘われて、僕たちはそこで1時間ほど話した。フライトまではまだ少し時間があるらしい。彼女はこれから、ずっと遠いところに行く。これが一生で最後の会話かもしれないのに、隣の客がフライドポテトにケチャップをかけすぎていることとか、この前見つけた調味料店のピンクソルトがバーゲンで安くなっていたこととか、どうでもいいことばかりを話していた。お互い話の着地点を探しているのだ。さよならを切り出すのは僕からでいい。恋心とかそういうものではなくて、ただ、その人間のまとう空気感というものはいつのまにか僕の生活にも侵食している。それはその人と会うたびに上塗りされて一定なのだけれど、彼女が持つ雰囲気も、これからはどんどん薄くなって、最後にはほとんどわからないほどになってしまう。僕の中にいる誰かとの記憶は、僕自身の写し鏡にしかなれず、裏切りのないつまらないシーンだけが積み重なっていく。

JFK空港まで送った帰り道、やんでいた雨がまた振り始める。今頃傘を持ってきていないことを後悔した。ビルの隙間から見える曇り空は動いていない。僕は一人になった。いつも通り。生活が僕の理由で、関わりは僕の人生となって行く。共有された瞬間だけ、記憶の中で彩りを保っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#018

 

一人の人間が死ぬ時、近い人間が死ぬ時、その人の表情やそこを覆う景色を 

例えばその人がこぼした一字一句も全部、忘れないように書き留めたりする。僕はその人の痕跡を残そうとしている。

 

口角がだんだんと下がっていくのを見ている。目尻が細くなって、表情は崩れてくる。悲しみは筋肉へと伝わる。細くなってほとんど動かないその体から、言葉をなんとか絞り出そうとしている。その人の声を僕はなん度も頭の中で繰り返す。忘れないように、そのシーンを擦り込むように。

 

 

こちらを見ているのがわかったけれど、僕は気付かないふりをして本を読む。

本に並んでいる記号の羅列は説得力を失い、それらが諭すこの世界のことはほとんど関係のないことになってしまう。目の前で実現されていく死だけがいま僕を捉えている。何層にも重なって展開する現実も、何気ない生活も、それらは振り返って初めて見える生と死の接合部であって、この人にそれらはもう関係ない。

生々しいほどの現実は、例外なくその体を捕まえようとしている。何故生きているのか、何故在るのかという疑問は、言葉ではなくて視覚的にそこに横たわっているようだったけれど、それは僕にとってそう映っているだけかもしくは、ただ僕はそう見る傾向をもつ主観なのだということ。

 

 

何かがそこにはある。あるということを、確かにそれを感じている。ベッドの上には重さがって、それを所持している何かがある。静かに目をつむるその人は、もっと早く、もっと大きく動いていたりしていた。喉を震わせて声を出し、関節を動かして歩を進め、笑ったり泣いたり、怒ったりしていた。

 

その人の歴史と僕の歴史がかあさなりあっていた時間が、途切れ途切れになって頭をよぎる。記憶は確かに現実で、瞬間が永遠に続くように僕はたわむれていた。

 

 

心電図の波は緩やかになって、しばらくして電子音が静寂を破る。

硬くなって動かない。僕はこれをよく知っている。ながく時間を駆け抜けていた肉体は空っぽになって、その人は不在で、僕はこの形が好きだったわけではないのだということを知る。全てを思い出そうとするけれど、断片的なイメージだけが冷たい手のひらの感触からやってくる。

 

生は一瞬で、死はその一部として、どこかで待っている。あらゆる表現はどんどん遠ざかって、ここに生きているという感触だけが僕を貫いている。どこから来てどこへゆくのか僕たちは知らない。その人の痕跡が消え去ったあと、とりとめもない時間が全く違う在り方で、今は僕だけが立っているこの部屋を飾っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

#017

空のビール瓶を通って彼女の体まで、太陽の光が届いている。

明け方なのか、夕方なのか。青のカーテンが揺れている。

 

ずっと前にこぼした言葉が僕を通り抜けずに残っている。

「君は自分の中に溜まったものを切り売りしている。それはいつか底をつく。」

 

そんな時間はずっと流れていたと思う。何かが根拠を持って、何かがそこに積み重なっていった時間。たしかな感触を求めて生活をさまよう。筆圧の強さや、部屋に散らかる元の場所に戻らないあれこれは、いつかの僕を更新していたあれこれだった。

 

古いカウチにずっと横になっている。5時を過ぎていること知らせるディスプレイは黙ってこちらを向いている。この瞬間に理由を求めてしまうのはしかたがない。今現在はたしかにここにあって、それはどこかへ向かっていて、それなのにこの空間の広がりもいつか、静かに何処かへ行ってしまう。

 

目を閉じる。まぶたの内側にも外側にも世界は広がっている。この広がりに恋に落ちている僕たちが不安なのは、よく考えれば当たり前のことなのだ。必ずいつか失わなければないあらゆる出来事のリストには、自分自身の名前も刻まれている。

 

終わりの時は近いのに僕は笑ったり、飲んだり食べたり、大きな木を見て楽しくなったりしている。現在は、死の瞬間の対になっているようだ。ゆっくりと終点へ向かっている生という列車の中で僕たちは、ひたすらに視線を泳がせている。

 

死を含む僕の体が、僕の死を目の前の景色に写している。人生は本当に、つかの間なのだと思う。だから多分何もできない、何もしたくない。僕を囲むあれこれは、いつかは手放す僕の生活。何もないところを彷徨う時がいつかくるのならばその時僕はきっと、コーヒーカップの温かさや友人の表情、背中を焼くような夏の日差しも、全部思い出して恋しくなるのだ。

 

 

現在進行形で過ぎていくノスタルジアが、いつか手放すこの重さを少しだけ軽くしている。

 

 

 

 

 

 

#016

いつの間にか考えることをやめる。やり尽くしたという感じではなくて、見失ったといったほうがいいし、初めから真っ当に考えられることなど無かったというべきかもしれない。とにかく、問いの螺旋から降りてしまった僕の世界には、ほとんど何も残っていない。他人の物語へと逃げ込む、気味が悪いくらい簡単に。それぞれの世界観を満たしている空気を何とかそこから取り出して、自分の世界にインストールしようしている。

現在は散らかっている。何から触り始めればいいのか。何も把握できない時、確かに自由の刑を感じる。自己陶酔な感性と、大きすぎる欲望。中途半端な忠誠心。

 

芸術。内にあるものか、それぞれの世界を吐き出す。構造的な魅力か、暴力的な個性は時としてすごく退屈だ。ある感覚、違和感の中にトリップ。全くおかしな世界の表層が至近距離でそこにあるけれど、内側が全然見えてこない。一時的な高揚感。物事の形と色、配置が演出する空間とそれが連れてくる感情。 

はっきりと始まったタイミング。無理やりフラットになったかと思えば、生き物が湧いて出てきたり、雲がリズミカルに動いたりする、水色の空は太陽に吸い込まれ続けている。人生の中でランダムに出現するあらゆる主張が、正しさを叫んだり吐き出したりしてなすりつけようとしているけれど、突拍子も無い出会いだから、僕たちはそれを本当に信用したりしない。納得が渦巻いている。満たされる一瞬手前、不安はやってくる。絶対を許さない絶対的なエゴ。映る全てを秩序付けることへの妄想。問いは終わらない。

 

今の感情を作り上げたものが何なのか僕は振り返りもせず、その結果だけを継続している、そこに根拠は見えない。発端はすでに忘れられて、僕は昨日の感情を何も考えずただロードしている。固定されている現実とグロテスクな本質が交互に見え隠れしているようで、逃げるように幻想の中で生きようとする。音でも。写真でも。映像でも。文章でも。あらゆるデザインも。都市の呼吸も。全てが現実から僕を滑り落としてゆらゆらした連結の世界を一瞬だけ見せる。それはぎこちないリズムを刻んで、テンポを目指している。

感情は向こうからやってくる。自分の中から湧いてできたりしたことなんてない、みんな。物事の方からやってくる。僕らは宇宙で漂う無数の星のように、光を遮って映すランダムな個体。自分が発光体なのだと勘違いをするだろうか。

 

どこで誰と、何をしていれば満たされるのか。何を持って何を捨てて何を感じていれば安心はやってくるのか。

 

ピアノから始まってウッドベースが聞こえてきた。隣の部屋では安いビートが落ちる。縛られないメロディと、不規則なシンコペーション。プラットホームから始まる映像と、足元だけが楽しそうに動いている人間。大きな街。

 

 

 

#015

晴れ。僕がいるところから雲は一つも見えない。

部屋の窓からは木漏れ日が落ちている 。

 

先のことばかりを考える。いつか訪れるはずの理想的な時間のために現在を耕しているという認識が僕を慰めたり、ゆるい幸せをちらつかせたりしている。お宝は今この現在にしかないということを友人に言われて、何だかすごく損をしている気分になった。

 

大き過ぎる欲はコントロールを失って、結局僕だけが人生と関わっていないということになる。決断できないのは欲が強過ぎるか、悟性が足りないからだというのは本当かもしれない。機は熟したりしない。あれでもないこれでもないとやっているうちに人生は終わる。

 

 

生活が整理されて、世界が少しだけノスタルジックに映る。役者は木漏れ日、夕方、ある種の音楽とか温度とか。部屋にさす陽の光と、だらしなく動くスクリーンセーバー。夕方のプールサイド。それらに名前をつけて大事にしまっておいたとしても思い出すことはない。詩情フィルター。それを引き連れて歩くと、やり切れなさだけが残る。 

 

なんとか目に焼き付けようと、ずっとそのシーンの中に立っている。視野の全部で舐めるように見てもなにも手に入らない。美しさに魅せられているのではなく、失いたくないという気持ちに囚われる。景色に参加することができない僕はものごとの平行線を乗り越えて全てを自分のものにしようとするけれど、その場所でじっとしていることしかできない。

 

手に入れてすらないはずのあれこれが目の前に現れて喪失感だけを残して消える。僕だけがおぼえている。この一幕と共にフェードアウトしたいと願う。

 

生活の中で印象的なシーンに出会うたびに何かがプロットを動かしているような気分になるけれど、それは錯覚なのだ。物語は過去になってはじめて紡がれ、理解される。現在にぼくの居場所はない。ただ見ているだけで、それが後ろに流れるとき僕は生き生きと役柄を演じ始める。

 

 

過去の自分を振り返る。二つの視点が介在することで初めて人生は把握される。当事者として呼吸をする現在の僕はその残像を追うよう生きている。同じ場所を踏んで、同じ景色を見ようとするけれど、僕はそこにはいない。

 

 

 

 

#014

天気のいい日、木陰でタバコを吸う。

 

真っ白なコーヒーカップ。真っ黒なコーヒー。

背中が暖かくなってくる。風が影を揺らしている。

 

車を運転する。ブドウ畑がずっと続く。窓を開けて手を出しても大丈夫。ダイエットコーラの350mlが好きなのだけれど、昨日の残り。それのぬるいやつを飲む。まっずい。スピーカーからの早い音楽が信号を無視して抽象する。

 

 

部屋が散らかってきた。そらは怠惰を許しているのではなくただ僕を甘やかしているのだ。ラムの空き瓶。底に溜まった吸殻。ビタミン剤。百科事典。チャックの壊れたビニールのジャケット。

 

生活の輝きは、どういうことか、この不透明から来ている。

存在の理由が見当たらないこと。理解を許さないものごと。不可解。それこそがまさに生活を彩り、尊いものにする。わからなさこそが、そのエネルギーの発信源だった。アクセルを踏む感触も、暖かいカップを受けとる時少し触れる指先も。僕が死ぬことの確信から踊るように逆算されて初めてそれが浮かび上がる。そのシーン。積み重ねる生活の全ての瞬間。それぞれが意味をもつ。それぞれが僕を通して始まりと繋がる。僕の終わりを匂わせて、その物質は、それぞれはそこにあって、それは今この瞬間に、そして大きく広がる。

 

誰も知らない。僕たちが一体何なのか。静かにじっとしていると四肢の重みが家具に乗る。接着しているところから僕が始まっている。

全てを知っているように、これから何が起こるかその眼の奥で知るように僕たちは歩くし、話すし、動くし。

 

ずっと前の原因まではそう遠くない。空っぽなペットボトルの先で焦点を失う景色からでもそれは少しずつ見えてきたりする。

 

ものごと全ての混乱を抱えて景色に写す。驚きとおおきくて気持ちのいい波が始まる。生活はそれの折り重りなのだ。疑問が諦めに変わるとそれらは答えを嫌うだらしない視点になる。それは極彩色の分厚いフィルターへと変わり僕のレンズとなり、生活は色とりどりに輝き始める。意味が全部消え失せて、気持ちも擦り切れて、人間生活のお粗末なカラクリが無残に、その骨組みが晒される、それでも僕は楽しくなる、喉を通る冷たい水、大きく吸い込む空気、汗でぬれたTシャツ、動いて、全部わからなくなって、気持ちよくなる。全部捕まえようとして僕は全部取り損なう。

 

人が話すのを見る、書いているのを見る、動いているのを見る。僕たちはじっとしてられない。器官が理由を作り、1日を真っ当に浪費する。つまらないことを考えず働いたり、恋をしたり、酒を煽ったりするのが本当の楽しみ方なのだという。回り回って僕も賛成。大賛成!