DIARY

パラダイス銀河

時空間だけが僕たちが支払うことのできるもので、自身のプロパティと呼べるようなものは他には存在しない。あらゆる物事、複雑な様相もミクロなyes/noの重なり。

文化というのは生存スロットが各々にふりあてるゲートであり、出発の時点でスキャンが行われる。それは装いであり、ある根本的に共通するアクションに対する態度のバリエーションである。

無限の選択肢、可能性の中で、支点となった僕たちがあって初めてパラダイムが現れる。この意味で、存在は僕たち自身であり、なお対等に対局している。

愛というのは許容であり、それは振り返られない部屋の物の配置、建物の形、知った人たちの姿、それは、無意識な許しなのだと思う。笑うことは許しに近い。

例えば彼女を愛しているなら、その人のありのままを受けいれること。制限やたくさんのルール、拘束しようとするのは愛ではなく、絶望の孤独とその不安。

 

 

憂鬱は軽やかに夜を乗り越えて、目を覚ますのをまつ。酩酊は人生の諸々の営みと同じように小細工でしかない。

抽象的に沈んでいく人間に具体的な軋轢が追加されると、重たいだけだった憂鬱は棘を持ち始める。抽象的な理由で人は死んだりしない。それらは弾丸で、トリガーは実際的な出来事だったのだろう。失恋、仕事、借金、なんでもいい。

死のイメージは真っ白な光り、生のイメージは淡い光り。目覚めて脳みそから聞こえてくる第一声が「拳銃があれば今すぐコメカミに銃口を当て引き金を引くだろうな」だなんて、なんたる人間か。外国にいた頃に済ませるべきだった。

ふと思い出す出来事がある。二限続く物理学の授業の休み時間、ちょうど素数の分布について話始めた教授が一旦切り上げた後の20分の休憩時間、僕は喫煙所にいた。後からクラスメイトが入ってきて、銃のことを聞いた。「グロックの19ならキャッシュで500ドルぐらいで買える。」とそいつは言った。学校から帰ると僕はそんなことはすっかり忘れて、夕日が綺麗だななんて思っていたのだろう。ラッキーはラッキーな人間にだけストライクする。運命を呪ったりはできない。それは自分が魔法使いじゃないことに絶望するようなものだ。

何か行動しなければ人生が動かないというのは自明なのだけれど、そんなことせずただ待っているだけでもいい。文字通り何をしてもいい人生で、何もしないという選択肢は許されている。痛いことは起こらない。若さと可能性をドブに捨てることをあらかじめ後悔しながら、それでも何もできないということは、僕としては論理的整合性は取れている。

 

 

 

 

 

美しいものは何も訴えかけてこない。それ以外の全ては、騒がしく、要求する。語りかけてくるものはいつだってそれ以外で、僕たちは叫び声から遠くに行かなければならない。美しいものは、所以を話し始めたりはしない。ただ静かに、そこにいる。何かを理解しようと躍起になる必要なしに、受け取ることができる。美しいものに対しては、一方通行が許される。それ以外では、たちまち衝突を起こしてしまう。

これまでの関心ごとを消し去ってくれるような形。音、リズム。肌触り。神秘は身近にある。血眼で街の景色を眺めたり、人混みで沈んだりする必要はない。それらはこの世界に散らばったり集まったりしていて、人々は通り過ぎる。本当のものに触れると、美しさは始まる。騒がしいそれ以外はもう邪魔をしなくなる。ただ沈黙だけを探している。無理やり見つけ出したものではなく、自分自身など存在する以前からここにある理由と行為の末端が、今でも静かにこちらを見ている。ただその中へ沈んでいく。

僕が心底腹正しいのは、僕がどこまでも正常だということだ。いささか我慢できないのは、どこまで言っても正気だということだ。狂うことができない。手足はガッチリと縛られている。もっとずっと若い頃に僕が死にそうになった言葉の羅列をまたなぞっている。今それは救いの言葉の様子を見せている。祈り方を知らない僕は、体を切り刻んで自分を確認する壊れた精神も持たない僕は、ただ弱々しい苦しみをなぞって、知りもしない誰かの許しを請おうとしている。

人形町

人形町に行きました。6時半に待ち合わせで、目が覚めたら5時過ぎだった。起きることができたのも、着信が偶然5時にあったから、枕元に携帯があったからです。駅を降りて、信号を渡り、少し歩けば小さなカウンターのお店があり、そこが約束の場所でした。その人は先に注文していて、鶏肉とビールがありました。僕は座って、同じものを注文しました。少しすると隣にサラリーマンが二人座りました。京都から来たという二人は僕の容姿を褒め続けて、隣にいる僕の友達に、今晩セックス をするのかというような話を下手くそなオブラートで、ずっとしていました。僕たちはしばらくして店を出て、そのまま駅に向かいました。友達はお家に帰らず、僕の家の最寄りの駅で降りて、一緒にお酒を飲みました。バーテンダーのおばさんと、島根県の話をしました。海の話をしました。修学旅行で食べたご飯の話をしました。気が付くと夜は更けて、友達は電車を逃したので僕の家まで来ました。帰ったらすぐにベットに入って寝ました。友達は朝5時に起きて帰りました。仕事があるそうです。僕は何もないので、もう一度寝ました。起きたら夜、もう外は真っ暗でした。

駅の終わりから始まるスプロールに訪れるしじまのなかで、子供達の声がする。かくれんぼ。隣の部屋からはピアノの音が聞こえてくる。左手の練習。

この空っぽには内容がある。この空虚は満たされている。何も入っていない箱の中に何も入っていなければ、僕たちは何も考えない。空箱の中に、何かが入っている。毒リンゴを人は疑わない。よく笑う神父を人は疑う。

何もないから辛くなっていたのではない。何もないところで何かを感じる。

何もないところで何も感じなくなる。ここからだという気がしてくる。最初の一手が思い浮かばない。会心の一撃は、相変わらず空を切るのだろう。