DIARY

パラダイス銀河

#013

221Bという表札。僕はここに住んでいる。

例の名探偵が住んでいた部屋番号と同じなのだ。だからと言って何というわけではないけれど、一回生の時数学基礎で知り合ったイギリス人が部屋へ来た時にひどく喜んでいたので思い出した。ベイカーストリートには今やチェーン店が並んで、霧の都の面影はどこにもないらしい。

 

宇宙のどこにもこんな場所はない。街灯は輝いている。通りの角にはカフェの光が落ちて、陽気な音楽が流れ出している。人々は歌って、踊って、酒を飲む。冷たくて、暴力的で、意味なんて見当たらないこの真っ暗な宇宙の中でも、人の街にだけは光がある。つまりこんな場所は火星や木星にはないということ。受け売りの言葉だけれど。

東京にいた時にも同じことを思った。通りを歩けば、電飾が白い体に映る。100年もすれば笑ったり泣いたりしているこれら全ての、大勢のぶよぶよした塊は消え去って、似た形をした全く新しいものが湧いて出てくる。人間としての時間は、何もないところからポツリと降って来たものではなくて、物事が一時的な集合をして世界を写す装置を作り出しているように感じる。

 

 

死刑台を登るとき何を思うだろうか。一時間後 、世界はもうない。これまで慣れ親しんで来たあらゆる物事が、綺麗さっぱり消え去る。それもわからない。

物理的な作用が、最も現実的なやり方で彼の全宇宙を消しとばすのだ。

例えば縄を首にかけられる時、家族で行ったレストランのたらこスパゲティの味とかを思い出すだろうか。死の瞬間直面する現実も、本質的にはそれらと何も変わらないはずなのに別の世界の出来事のようなのは、死があたかも有から無へ、僕の存在をひっくり返してしまうように思えるからだ。

僕は最も現実的なうちに死ぬ。その現象は、単に物質の変化だともいえるかもしれない。全存在を一枚の絵画に例えた人間がいたけれど、それがディスプレイだとしても、僕が死ぬと言うことは、僕の居場所である一つのドットが、その色をかえると言うことだけなのだ。僕は死んでもどこにもいけない。消えたりはできない。ただ存在を自称できなくなるだけで、それを構成していたあれこれは、無に変わったりはしない。

存在を自称できるのは人間の特権だと思う時がある。思い上がりなのだろうな。

 

 

 僕は時代の上に立っている。空騒ぎに便乗するには、忘れないといけないことが多すぎる。酔っているのは僕なのか景色の方なのか。それは同じこと。遠くの絶望をわざわざ捕まえにいこうとするのは、性癖みたいなものなのだと言われた。生きることに意味がないのが問題なのではなく、生きることの意味に意味などないことが問題なのだ。

 

今まで必死になって意味を消してきたのは、それは何かを諦めたいからなのか、正しいことを知ることがもう叶わないと感じたことの裏返しなのかは、わからない。

それでも価値を置いていたあれこれは全部清々しいほどにフラットになって、生活はどんどん奥へと引っ込んで行った。しかしその作業もほとんど終わったらしい。物事に対して不感症気味になったのはそのせいだろうか。書きたいことが見当たらないのもそのせいだろうか。

何一つとして正しいことは言えない、言い切れない。だから答えを出さない。YESともNOとも言わないことが一番誠実だと僕は思っているけれど、疑っているうちに落としどろこを見失う。居場所はどこにもないのだと。どこにいても落ち着かない、何をしていてもわからなくなってくる。これがこうである理由。僕がここにいること、物事が目の前に広がっていること。

 

かもしれないというあらゆる可能性を均等に扱っているうちに、進むべき方向も失う。

 

 

もっと新しく、ダイナミックに見方を変えらたなら、生活をおおう虚無感は、むしろ世界は満たされていると叫び始めるだろうか。

 

 

#012

ラッキーストライクを一箱もらった。

 

ラッキーにストライクするタイミングがこの先の未来に横たわっている、なんてことはない。現在を犠牲にしないことには能天気な希望的観測が最終的に僕を絞め殺すだろう。生活は難しい。

 

 

"The artist's job is not to succumb to despair but to find an antidote for the emptiness of existence"

昨日見た映画のワンシーンで引っかかったセリフ。芸術家の仕事は存在の空虚に敗北することではなくそれに対する緩和剤を発見することなのだという。目を背けて明るく愉快にやっていこうなんて姿勢の方がよっぽど敗北なような気もしたのだけれど。どれだけ生き辛くても虚無感からは目をそらさず、その上何か能動的な意志を作り上げていくのだみたいなニュアンスなのだとしたらそれこそ超人だ。そんな奴は神をも殺してしまう。

時代性だろうか。

 

イヤホンをLとR反対につけてみた。いつも聞いている音楽が少し違って聞こえてくる。小さな変化が少しだけ嬉しい。何かを忘れてもいいのではないかと思い始める。

 

 

 

 

 

 

僕はついに選ばれなかった。これが何かのきっかけになればと思う。

 

 

#011

毎週土曜の午前中は、街の中心でファーマーズマーケットが開かれる。2週間ほど渋っていた雨雲がようやく動き出した。昼頃にはずいぶんと暖かくなってきたので上着を脱いだ。晴れると生活に色彩が戻るというか、彩度がぐんと高くなる感じがする。トマトが反射してすごく赤い。「すごく赤い」なんてよくわからないけれど。

カラフルな作物。コーヒー豆、はちみつ、大きなイチゴ。それからいびつな形をした陶器なんかもあった。みんな笑っている。大きな荷物を抱えて道を横切る人。ベンチに座って絵の具を売る老人が何やら話している。それを聞いている若い女の人。

通りを歩く。もうこの街に住んで短くはないのに、知らないところがたくさんある。知らない人たち、入ったことのない店、見たことのない風景。賑やかな音楽がどこかのバーから流れてくる。理髪店で髪を切っている人。何を話しているのだろう。

古本屋でヘミングウェイの’移動祝祭日’を買った。4ドル。

 

物語はひとりでに展開していったので、それに歩調をあわせて書いてゆくのに、私は苦労していた。もう一杯ラム酒セント・ジェイムズを注文した。そして私は目を上げるたびに、あるいは鉛筆削りで鉛筆を削るたびに、その女の子を見つめた。鉛筆の削り屑は、くるくる巻いて、私の飲物をのせてある台皿の中に落ちた。

 美しいひとよ、私はあなたに出会った。そして、今、あなたは私のものだ。あなたがだれを待っているにせよ、また、私がもう二度とあなたに会えないにしても、と私は考えた。あなたは私のものだ。全パリも私のものだ。そして、この私はこのノートブックとこの鉛筆のものだ”

 

とても僕一人では抱えきれないような、捉えきれないような生活の輝きが僕の周りにはある。手が届く範囲の、目に見える範囲にでさえ、ほとんど無限とも思えるような幸福への可能性が開かれている。スピーディーに、あるいはゆったりと、それらは生活を横切っている。全てを目で追っているうちに、理解と、把握を夢見ているうちに、僕がかろうじて触れられたのは残像みたいなものだった。捉えようとして、その全てをすくい損なう種類の人間。どうしようもない欲が、通りの隅々まで染み渡っていく。

僕の重さが伝わるところの上には、いつでも僕がいる。消えて粉々になっても、それは変わらない。消滅なんてできないというわけだ。瞼を開くだけで、見えない地平線にまで僕の人生が届く。

 

 

それにしても今日は綺麗な人とよく会う。「新しく鋳造した貨幣みたいに新鮮な顔」とヘミングウェイは形容している。だらだらとしたパラフレーズが、少しの倦怠感を連れて横たわる。

 

 

#010

 

夢を見た。

弟の子供に懐かれる。僕はすごく眠たくて、なんども寝ようとするけどリビングが賑やかで眠れない。母親に「一緒に遊んであげなさいよ」と言われる。小さな子供がテレビにかじりついている。僕は「我が闘争」の下巻を読み聞かせている。ヒトラーのカリスマ性の2パーセントくらいはあのヒゲにあったかもしれないとう話をいつか父親としたことがある。

 

久しぶりに夢を見た気がする。目覚めが悪い。シャワーを浴びる。妙に筋肉がついた。暗い気分から逃げるように無理やり体を動かしていたせいかもしれない。

 

昼。同研究室の人と話をする。引用がやたらに多い。二十歳がひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとはだれにも言わせまい、と言ったのが印象的だった。

 

大学のロビーで以前親しくしていた人と偶然会う。「そっちに座ってもいい」と聞かれた。何も言わず僕がその人の生活から消えようとしたこと、普通にバレていた。あんまり怒っていないみたいだったけれど。今度コーヒーを奢る約束をする。覚えのある匂いがした。

 

ビルの表面からは巨大なディスプレイが湧き出ていて、保険会社の社長の笑顔やいびつな形の自動車のコマーシャルなどがながれている。殆どうつむきながら道路を横切る人たちの顔が、青い光を映して点滅しているみたいだった。

時代の色。火星に住もうとしたり、インターネットが物質になったりする。

 

全て投げ出す。気分はよくなるだろうか。いらないものばかり。捨ててしまう。ガラクタを売って、お酒を買う。セックスをしてタバコを吸って、それからどうでもいい本を読む。ボロボロの、空っぽな家に住む。美味しいものを食べる。まるい形の車を買う。重たいジャケット。

 

カレーライスを食べて水を飲んだ。とても美味しい。

そのものが好き、だなんてことはありえない。水やカレー自体が好きなのではなく、水と僕が好きなのだ。水を飲む僕。ならこの生は?

 

ポップな死。カラフルな自殺。ポップな生は退屈だろうか。それは単色だろうか。みんながパンっと弾け飛ぶ。色とりどりの臓器はカラカラと音を立てて地面に落ちる。

 

ドアに紙がねじ込まれている。”ロストジェネレーションの作家たちについて語り合いましょう”という見出し。サルバドール・ダリの自画像が強引にコピーアンドペーストされている。ヒゲと白目が目立つ。僕はあまりヒゲが生えないタチだ。ところでなぜダリなのだろう。スペイン人だし、彼は失われた世代ではない。

 

芸術家は現代性を取り出してキャンバスに落とそうとしているという話をどこかで聞いたことがある。不思議な感じ。1日中同じ絵を観ている人。

ノートの最後のページの殴り書き。「人間、時代、浮遊感、お祭り、ジャズ、テクノロジー、都市、路地裏、喫茶店、アルコール、友人、美しさ、存在」

 

レコードを買った。ビルエバンス。晩年はほとんど時間をかけた自殺のようだったと伝記に書いてあったことを思い出す。時間をかけた自殺というなら昨日生まれた人間にもそれは始まっているのだろう。「Undercurrent」というアルバム。1962年という表記。アンダーカレント、底流?

一曲目はマイファニーバレンタイン。明るいアレンジだった。

 

 

まだ早いけれど電気を消す。すごく眠い。いいことだと思う。空のペットボトルの底からライトを当てる。壁に模様が浮かぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

#009

日曜。四月。

 

やるべきことなんてないのに、そのはずなのに生活が僕を急かしている。秒針だとか空腹だとか、一日のシーン。僕は引っ張られたり追いかけたりしている。

しあわせが未来に保存されているわけでもないのに、時々それを削っているような気分になるのはなぜだろう。割れ物のように人生を扱っている。

 

日差しが強い。風がある。歩きやすい靴。表通りに人影はほとんどない。中心街まで歩く。今日は祝日、少し賑やかだった。アール・デコ調の建物、カラフルな人たちが吸い込まれていく。古いアイスクリーム店の前でホームレスのおじさんがギターでガシャガシャやっていた。6弦が切れていた。

 

いつもの喫茶店。コルトレーンのJust Friendsが流れている。3ドルのブランドコーヒーを頼んで席に座る。店の人の左腕にアラビア語のタトゥーが入っていること、今日気がついた。隣の席二人組が黒人の社会学者の話で熱くなっている。訛りが強い。女の人がマッチでタバコに火をつける。ラクダのマークのパッケージ。

本を持ってきたのだ。全然読む気にならない。すぐに眠たくなる。壁の模様をじっとみる。僕は別に何もしなくていいのだ。社会も、生活も。義務はない。目の前には漠然と時間が横たわっている。20数年の間に粘土みたいに捏ねあげられた僕の傾向がそれらをむさぼる。僕は自由を幻視している。このままエレベーターで最上階まで行って飛び降りる選択、隣の人に話しかける選択、大学に寄って退学届を出してどこかへ旅に出るという選択。僕が選んだのはiPhoneで明日の予定を確認してやらなければならないことをリストアップするというものだった。つまらないだろうか。波風を立てないように慎重に駒を進めていくうちに、右にも左にも後ろにも、斜め右前にだって一歩を踏み出せるということを忘れてしまう。ぼくの自由は記号の奥へと消えていき、人生はゆっくりと固定されていく、均一が見えてくる。出所のわからない不安。

 

ある種の感情を生活のあちこちから引っ張り出そうとしている。少し前までは自然と向こうからやってきた感じだった。月並みな言い方をすると、何かが在るということの不可解さ、あるいはヒミツみたいなものなのだけれど。目の前の光景の中に規則性が浮いてくるとき、物質の傾向とかを垣間見たとき、少しだけそわそわする。

借りていた本を返しに友人宅へ。部屋へ案内される。セックスした後の匂い。散らかっている。積み上げられた本。マルクス、レーニン、デュールケーム、フーコー、カミュ、シオラン、それから英訳版のノルウェイの森なんかもあった。スノッブを自称する僕の友人。水タバコの煙で表情がよく見えない、目にしみた。

 

どこに行ったって何をしたって目の前の景色を直視することはできない。わからない不安。選んでこなかった選択肢が胸焼けを起こさせる。みぞおちあたりがすごく重い。もらった瓶ビールを飲んだ。字を目で追いながら他のことを考えている。切れかけている蛍光灯、ホワイトボードに書かれた購入品リスト。行ったこともない街のこと。40年前のパリだとか。

 

どこか別のところからつまみ出されてここにいるのではないかと感じる。人生は一直線に映っているはずなのに、ありもしない幸福の可能性や自由への幻想が僕の頭に安っぽいの羅針盤を作り上げた。空っぽの球体の中心にいるような気分になるのはそのせいだと今は思う。どれだけ考えても、何を感じても、ずっと待ち焦がれている大きな納得感はやってこない、世界は整理されない。透明の秩序が僕を乗せて現実を駆け抜ける。僕は何なのか、どこにいるのか、何をするのか、なんで動くのか、なんでこんなもの食べてるんだ、全然わからない。なんで歩いているんだろう、どこに向かっている。なんでこの人の後ろを歩いているのだろう、なんで。

 

書きたいことはこんなことじゃなかったと思う。道の真ん中をサンダルで歩いたこととか、太陽の光で気分が良くなったこととか、そういうこと。

 

ぞくっとするような世界の秘密は多分もっとも現実的で、退屈なんだろうなって思う。でもそれでいいし、それがいい。ぜんぶが束になって一箇所に集まって、僕はそれを掴んで意気揚々と歩き始める。そういう一日にたどりつくことを妄想したり、しなかったり。

 

 

 

#008

全部僕の勘違いかもしれない。

現代美術館。広い。静かだった。

芸術、他人の表現。つまらない風景画から存在を切り取れというのか、美しさ?ただ退屈なだけだった。どんな絵を見ても、写真を見ても、映像を見ても、音を聞いても、どれだけ奇抜な凹凸を目にしても、キラキラひかる大きなディスプレイを見せつけられても。それらは全然どうでもいいじゃないか。全然関係のないことじゃないか。核心というものがなんなのか僕は知らない。しかしそれらは全て一番遠いところにあるような気がする。それは保険会社の広告や、スマホケースのデザインくらいどうでもいい、それは、シャープペンシルの細さの種類くらいどうでもいい。

 

芸術活動がスポーツみたいになっていると感じた。

そういえばスポーツ選手なんかはどう考えているんだろうか。生きるということを。僕も競技に携わってきた。確かに学んだことはある。でもそれは大事なことなどではない。そこに価値やら真実はない。結果を争うということになると、そこには過程が生まれてくる。それに一喜一憂をする。その中に重要なものを見出す。それを存在そのものの重要事項と無意識のうちにすげ替えてしまう。しかしどうだ。早く走ったり、遠くにまでボールを飛ばしたり、体をうまく動かしたり。どうでもいいだろう。熱量があまりにも大きいとその行為が、そのプロセスの中で育まれたメンタリティは、奔走を始める。本当はどうでもいいことだろう。一定期間酔いを覚まさずに済む暇つぶしの一種なはずだろう。なぜそこに妙な意味合いがぶら下がってるんだ。涙を流す、体を動かす、目標を達成する。基本的な構造に忠実なだけじゃないか。努力?何かをやっていれば不安にはなりにくいだろう。

成長やら向上やら努力やら目標達成やらを悪くいうつもりはない。ただそれを人生の重要なファクターのように扱う風潮が気に入らない。人生を作ったのは人間。本来そこにあるのは、生々しい現実感。それは文明化された人間で有る限り感じ得ないのだろうか。苦痛、不条理、恐怖。死ぬこと。死ぬまでごまかし続けて生きているのだろうか。それともほとんどの成人が、自らの行為や人生が微塵の意味も持たないこと、くだらない暇つぶしかあるいは社会システムに否応無く形取られたものだということ、理解しているのだろうか。彼らは苦痛の表情を浮かべながらも笑顔を作って、日々を生きているとでもいうのか。それほど人間は利口で強いのか。そうは思えない。みんな全く別の方向をみてそっちでワイワイやっている。血の気が引くような存在の不可解さとあらゆる活動の無価値を感じて青ざめたりはしない。それらを全部抱えて、血反吐を吐きながらも人生をよしとする人間。そういう種類の人間。そんなのはいない。

スポーツ選手がインタビューで涙を流していた。ミュージシャンのライブで観客が涙していた。友人が、芸術家のドキュメンタリー映画を観た後涙していた。違うだろう。どれも感情じゃないか。どういう風に捉えているのか全然理解できない。昔の学者も今の学者も。何かを信じているもしくは確信めいたことをいう時点でその人間は利口とは言えないだろ。アカデミアにいる人間はみんなそうなのか。

やっぱり。生きていくためには、大切にするべき種類の感情、価値と認めなくてはならない物事があるみたいだ。僕はそれらに迎合できないどころか生理的な嫌悪感すら感じる。 ずっと昔からこうだ。ぜんぶ戯れじゃないか。なんで泣いている。なんで怒っている。なんでそこまでのめり込めるんだ。教えてほしい。よく喋るな。どうして、そこまで一喜一憂できる。死ぬまでの時間つぶしだろ。積み重ねてきた感情がそれを否定するのか。

 

この感じ。どうしても理解してもらいたい。無理矢理にでも脳みそにねじ込んでやりたい。僕たちがやっている全てのものは、文字通り全てが、重要なことではないということ。深刻な顔で生活しないでほしい。やってきたことはどうでもいいくだらない暇つぶしだったんだと、なぜ感じないんだ。もしかして感じているのか。だったらなんでそんな風に笑ったり、泣いたりできる。なんでそんな風に話せるんだ。誰も存在の不可解さに混乱したりはしない。そんなのことはバカバカしい。しかし人類がみんなそうなれば社会は止まる。むき出しの人間性だけが、時には暴力と共にやってくる。そういうのがみたい。そういうのしかみたくない。

個展を大げさに開いている芸術家に1年ほど前あったことがある。僕は熱くなってしまった。「お前が作った全てはくだらないガラクタだ。僕は何も感じない」そう言ったら彼は僕の目をずっと見つめていた。「自分が偉大だとでもいうのか、お前の情熱は全く違う方向に向いている。その情熱は恐怖の裏返しだ、不安の裏返しだ。問いを持たず、結論めいたものを早々と作り上げた、お前は、そこで踏ん反り返ってるお前は、何一つ正しくはないし、何一つとして価値あるものなど作っていない。お前がやっていたことはお前の性癖に沿ったマスターベーションの仕方だろう。それがスポーツか、芸術活動か、恋愛なのか、なんでもいい。とにかく、僕らの人生は重要ではないし、価値もない。だから何か大切なことに関わってるみたいなツラで生活するのはやめてくれ。深刻な表情も浮かべないでくれ、真剣なふりをするのもやめてくれ。僕らはただ神妙な面持ちで自慰を繰り返しながら死ぬまでの時間を潰しているだけだぞ。そろそろ考えたらどうだ。」僕は多分恐ろしく幼稚なのだ。そのあと僕は思いっきり殴られた。結構大きいやつだったから痛かった。白人は腕がながい。

 なんで誰も言わない。政治家だって、経営者だって、学者だって、アスリートだってなんでもいい。僕たちのやってることはただのオナニーだって言ってもべつにバチは当たらないだろう。子供の頭に虚無を無理矢理ねじ込むような奴は多分捕まるんだろうな。もう終わりにしていい。生活を逆進させて、無へと向かわせる。両目からは生気が消えていく。活動が静かになっていく。人間はそうやってゆったりとした自殺を種族単位で行う。社会が回らなくなる。絶滅する。全ての存在もしくは諸々の原因となる何か(神とは呼ばない)に牙を向く手段があるとするならば、生への能動性など投げ捨てて、自分の実存を否定することだろう。存在を疑い、それを嫌い、否定する。自ら終わらせる。死んだあと原因に会えるなら、死ぬまで殴ってやりたい。殺してやる。 

 

だめだ。部屋から出ないとこうなる。

 

さっきご飯を食べに外に出た。夕焼けがきれいだ。空気が澄んでいて、パインツリーが面白い影を落としていた。バスケットコートで、黒人がワイワイやっている。大きな声。みんな楽しそうに笑っている。僕は少しいい気分になった。待ち合わせの場所には友人がいた。こっちを向いて笑う。僕も少し笑う。暖かいものを食べている。こっちを観ながら話しかけてくる。僕らは声を出して笑う。楽しいな。日が沈みそうだ。

 

 

 

 

 

#007

暖かい日。何回か上着を脱いだ。

 

6時過ぎに帰宅。キャンパスを歩いているとなんとなく夏っぽい匂いがした。まだ3月だぞ。

小さい頃は週末よく家族でどこかへ遊びに行って、晩御飯も外で食べて、帰りに温泉によったりしていた。帰り道、車の窓を開けると夜の匂いがする。どこも変わらない。両親は元気なのだろうか。全然会ってない。元気でいてほしい。この1年は忙しい。多分今年も日本には帰れない。

 

「生活に忙殺されているうちに人生は過ぎ去っていく。人生が短いのではなくて我々が人生を短くしている。」みたいなことをいつかのギリシャ人は言っている。

当たり前だ。わざわざ言われなくてもみんなわかっている。無駄な時間と言うのはなんだ。酒を飲んでいるとき?インターネット?そんなものはない。

人生は使い方を知れば長い。だが世の中には飽くことを知らない貧欲に捕われている者もいれば、無駄な苦労をしながら厄介な骨折り仕事に捕われている者もある。酒びたりになっている者もあれば、怠けぼけしている者もある。他人の意見に絶えず左右される野心に引きずられて、疲れ果てている者もあれば、商売でしゃにむに儲けたい一心から、国という国、海という海の至るところを利欲の夢に駆り立てられている者もある。絶えず他人に危険を加えることに没頭するか、あるいは自分に危険の加えられることを心配しながら戦争熱に浮かされている者もある。また有難いとも思われずに高位の者におもねって、自ら屈従に甘んじながら身をすり減らしている者もある。多くの者たちは他人の運命のために努力するか、あるいは自分の運命を嘆くかに関心をもっている。また大多数の者たちは確乎とした目的を追求することもなく、気まぐれで移り気で飽きっぽく軽率に次から次へと新しい計画に飛び込んでいく。(セネカ・生の短さについて)

 人生を浪費することなんてできない。あらかじめ意味の与えられていないこの人生に、無駄な時間も有意義な時間もない。部屋で一人テレビゲームをしていても、火災現場で救助活動を行っても、気に入らない奴の額に銃口を突きつけていても、それらの時間に優劣はない。人生のあるタイミングで過去を評価する時、その時点での自分の目的に沿っている過去の時間の使われ方だけが意味あるものに見えるかもしれないけど、どうだ。単に恣意的なもの。

 

ずっと前から知っている。今更なんだという感じ。どれだけ楽しくても、どれだけ悲しくても、何もわからずに踊っていることに変わりはない。

もっとなんでもない出来事とかを書くべきなんだろうな。でもなんだろう。周りの出来事のことなんてろくに考えていない。姿勢が良い女性が素敵、白人はちょっと喋りすぎ、とかは今日少し思った。これからお湯を沸かしてコーヒーを飲む。

広い部屋と良い車が欲しい。すっきりしたキッチンと、それからチェットベイカーのレコードも欲しい。すっきりした自転車、すっきりした服、すっきりした靴、すっきりしたメガネ、すっきりした髪型、すっきりしたタオル、すっきりした生活。

 

んー。たしかに人生はなんとなく過ぎていっている。