DIARY

パラダイス銀河

#072

芸術大学の学生が開く個展、それから若い芸術家、ベテラン芸術家のギャラリーなどをここ2週間ぐらいで回った。若い世代が作った作品は、世界の、とりわけ人間の活動に対してシニカルで批判的な表現をしているものが多い。インストレーションでは意味が散らばりすぎて統一感がないものが多くて酔った。どれもこれも一人の作家が作っていると言われていれたら納得してしまう。ギャラリーのオーナーは「無国籍的な芸術は普遍的なテーマを扱うことに長けている」と威勢良く話をしていたけれど、どれもこれもアプローチの仕方は二番煎じだった。ダダイズム以降の現代美術の系譜をおさらいしてるようなものが真っ白な空間には並べられていて、美術史の最後の方のページをパラパラとめくっているような気分になった。芸術大学の学生グループと多分その卒業生で構成された展示などでは、お互いに作品を褒めあったり、先輩の作品をありがたがったりしていて、社会だった。単純に「売れる」という作品、時代を作っていけるような作品に共通するある種のポップさは、芸術になど毛頭の関心がないような人々にまでそれを届かせるのに必要なエッセンスなのだと思う。思考が始まった時点のカオスがそのまま散りばめられた作品たちは、避けられるレベルの恣意性に絡まっている。

作品のメディウムには、最近の生活の至近距離にあるものがしばしば使われている。インターネット、スマートフォン、ディスプレイ、ある種の偶像。そこにナショナリズムを見ることはほとんどない。欧米のキュレーターたちが一昔前に関心を示していた作品群の空気感がそっくりそのまま東京のギャラリーには散らばっている。若い日本人が作った「無国籍的」な作品からは、カビ臭い愛国心こそ匂ってはこないけれど、圧倒的な熱量を必要とする普遍的なテーマを扱うには、少々エネルギー不足にも思えた。

人間活動の虚しさや不条理に対して懐疑的な視線を向けたり、それをシニカルに表現してみるのもいい。しかしそれだとお遊戯で、趣味で、そこに深刻さはない。自己完結的な知識を鼻にかけた学者が大衆をむやみに批判するのと何も変わらない。正しく問うことができればすなわそれが答えだと誰かが言った。しかし問いを孕んだ作品はない。根本的なテーマを扱おうとしているのはわかる、時代性を反映させようとしているのはわかる、しかし個人的な葛藤の歴史という部分が欠落しているように見えて(あるいはそれを作品の要素として入れ込んで(?)いないのかもしれないが)これなら暖かい部屋で美術史を読みなおす方がいくつかマシだと思った。寒くて風邪ひいたっぽいし。

 

ps. 今回の話を知人にすると「何もしないよりはマシだ」と言っていたが、これなら何もしないほうがマシだと僕は思う。なんとなく絶望したりなんとなく綺麗にやるなら自室で大人しく死んでればいい。中途半端なユーモアに逃げるくらいなら語り得ないことについてはほんとにSTFU。