DIARY

パラダイス銀河

#063

眠ってしまうには惜しい夜を過ごしている。特に何かが起こったと言うわけではない。まだ行ったこともない場所会ったこともない人々を愛おしく思ったりする。酔っ払ってはいない。古い本屋によった。ヘミングウェイの「移動祝祭日」を買った。ロストジェネレーションの作家に最近肩入れしているので、パリに行きたくなったりする。僕は都市というか、街に魅了されているので、ニューヨークもパリもロンドンも、東京も香港も大好きだ。大きい街にいないと不安になったりするほど都市に依存している。

恐れている風景がある。変わらない毎日。近くのコンビニの照明。昔の友人の顔と声。よく通った道。

なんとなくいい雰囲気、色、景色。僕が憧れる人生は都市の生活のロマンチックな一瞬の中にある。ヘルマンヘッセの荒野のおおかみで主人公がカフェて一人の若い女性に会うシーンがある。行ったこともない場所の見たこともない時代の風景がすでに失われていることに胸が苦しくなったりする。弦楽器と軽い打楽器。それからすんだ文章。雨の日に傘をささず石畳の橋をわたる。向こう側からやってくる女の人目があう。モナコの小さな酒屋に仕入れに行く途中出会うビーチから上がってきた人たち。地中海の波が光で白くなっているのが遠くに見える。僕たちは同じ時代を生きている。時代ごとに全く違う人間が出来上がる。綺麗さっぱり入れ替わって行く。

ロマンチックでノスタルジックな夜。オレンジ色の街灯の光が道にぼんやり等間隔に落ちている。赤い窓のパブから笑い声と音楽が漏れている。サンフランシスコ。ダウンタウンに降りる途中のジャズバー。足が絡まって躓いたりする。またまた軽快な音楽。

港はもう動き出している。昼になったらロブスターをたらふく食べて赤と白のワインを飲もう。それからドライブをする。夜になったらいつものパブで友人たちとかんかんがくがく。

ブロッサムディアリーの歌声が聞こえてくるマンハッタンの夜。マディソンスクエアから少し北に上がったところにすむ友人のアパートでパーティーがある。もうみんな踊っている。部屋の隅でノートに必死に向かう若い人、ピアノを叩いて笑う、踊っている。靴底の音が天井まで響く。ウイスキーとウォッカの匂い。ろうそくがそこら中にある。訛りの強い英語。恋と言葉。それから音楽。それから街。美しい人生。わからない人生。どんどんわからなく、どんどん気持ちよくなってくる。このまま夜はあけない。

あったこともない人と、見たこともない街の片隅で恋に落ちる。やっぱり音楽が聞こえてくる。服が擦れる。靴が石畳をコツコツ。暖炉の近くのカウチで目を覚ます。まだ外は暗い。自転車を二人乗りでタバコ屋まで駆け出す。僕は旅をしている。僕の居場所はどこにもない。僕を覚えている人は誰もいない。この時代のどこかの場所で僕という人間は生きていた。美しい風景と、数多の人間。いろんな人間のいろんな表情が僕の脳裏をすごいスピードでかけて行く。溺れていきたい瞬間、何もかもが不思議になってくる。それらが全て優しく温かい様相で僕をつつんで、これまでの不安は五線譜に踊るメロディーが解釈を与えてくれる。柔らかい唇。アルコールの匂い。聞こえてくるピアノ。抱きしめる体温。街の明かり。知らない言葉。楽しい人生。愉快な空っぽがどこまでも続く。