DIARY

パラダイス銀河

#046

悪そのものなどというのは字面だけの話かもしれない。僕は生きている意味や物事や論説の整合性に全身全霊でシリアスになれるほど誠実ではないらしい。汚いものはできるだけ見たくない、弱い人間からは目を背けたい。矛盾しているようなものごとに関してはさっさと忘れたい。生きる意味が見つからない的な悩みも実際には、本当のところ深刻になってなどいない。10年前も今も変わらない不一致は現実にずっと流れてはいるけれどふつふつと湧いてきた虚無感や景色が平らになっていくような、ここに存在している理由が見つからない感じは言葉への不信感、感情、欲、育ってきた環境、時代性、家族体系、収入、教育、場所、あらゆる要素から独立しているようなものではない。それはもっと現実にへばりついているような問題で、抽象的、ましてや哲学的な問題などではない。うやむやにしてニュアンスでごまかして芸術と称して発散したところで解決の糸口が見えてくるようなものでもない。ただ幸せになることだけが必要で、清潔な欲を満たし続けることが必要なのだと思ったり。

無数のレンズを通して、大小あらゆる社会を毛色の違う方法でカースト化して把握したとする。ピラミッドの上にいる人間、最下層にいる人間。下の人間は欲の輪郭が露骨に見えるなどという人間にあったけれど、どこも変わらない。一番初めから考えるべき。ぼろいアパートで日雇い労働でその日暮らしみたいな生活に憧れる時もありますといえば殴られそうになったことがある。クオリティを落として落としても、それに食いつく人間がいる。そこには需要がある。妥協に妥協されたギリギリの生活に取ってのライフラインとなるようなグレーなコミュニティや概念を一括りにして社会悪のレッテルを張るのはお門違いかもしれない。呼び名が違うだけでやっていることは同じだということがごまんとある。戦争を一方通行的に解釈するのと同じくらい危険な感じがする。危険ってなんだ、危険もくそもない。どうでもいい。

本当はこんなことはどうでもいい。知らない誰がどうなろうとどうでもいい。しかし偶然そういう自分とは関係のない影の部分を見たりすると気分が悪くなる。それは社会の理不尽さに対する怒りや当人達への同情などではなく、汚れたところを見てしまったという不快感。僕は綺麗なところだけを見て、一番大きな都市の一番明るいところでふわふわっと世界に絶望したりして、綺麗なマンションで素敵な女の人と美味しいご飯を食べたりするだけでいいと思う。汚れたところは文面やらテレビのドキュメンタリーぐらいの距離感でたまに見てちょっと触発されてこんな風に適当に書いて次の朝にはけろっと忘れていたい。

偶像を剥がせば生身の人間がいる。そこには何かいつもと同じものが流れている。同じものに満足して、同じように考える何かがある。猟奇殺人鬼もF1レーサーも舞台女優も、みんな同じページにいる。

人間という生き物がいて、言葉を使う。時間と呼ばれるものがあって、歴史がある。それぞれの関係があって、解釈がある。人間という動物。僕たちがもし1000年前と同じことをしていても多分それには気付かない。現代性というものがある。僕にとっては僕の狭い世界とコミュニティが全てで、そのほかで何が起こっていようと関係ないというのが本当のところです。僕が見て解釈するあらゆるものに正しさも普遍性もないので閉じ込められているといえばそうかもしれないけれど、外側など知る由も無い状態では何も知らないことに不安になったりしない。僕は何を知らないかも知らない。

宗教家が信者に人体実験の洗脳をしたり、地下アイドルに熱狂する派遣労働者だったり。ミルグラムの人体実験、太平洋戦争、コミュニケーション、教育、宗教などの話をした。明日には忘れている。メモを取っても忘れている。僕の生活には関係ない。晴れ渡る空と涼しい風を受け取れる気持ちの余裕と、可もなく不可もない3度の食事、ちょっとだけ裕福な実家、可愛い彼女。僕の中の基底を覆しかけたあれこれも次の朝には退屈な文章や鬱陶しい映像としか感じなくなる。僕は人間で、ただの動物だといわれてもそれは実際には何も関係ない。僕には僕がいて、僕だけの世界があって、そこで生活が広がっている。その視野が捉える範囲が穏やかで快適ならば他はなんでもいい。眠い。新しいブランケットを出して寝る。お腹が減っている。夜中に牛丼が食べられる世界にちょっとだけ帰りたい。でもおやすみなさい