DIARY

パラダイス銀河

#031

夜歩いてコンビニまで行く途中、僕の生活はこの先にある何か理想の生活や、そこにいる自分というのを目指しているということと、今現在しかありえないということを。変えるのは今この瞬間で、操作できるのも目の前の現実だけしかない。小学生の日記みたいな文章になったし、この後もそう。

無意味だということは全くしっくりこない。僕は人生やこの世界を無意味だとはいえない。この世界はあって、そこに僕はいる。僕は言葉を使ってものを考えて、あらゆる出来事を解釈する。

俳優に、なぜ君は役者をやっているのかと聞くと、演技が好きだからだという。誰も、生活の手段だとか、金を稼ぐためだとは言わない。職業には色々なものがあるけれど、実際に世界を動かしていると明らかにわかるような類の仕事は退屈で、そこにはなんら神秘性はなく、同じ動作を繰り返し、システムの一因となって対価をまさしく得るためだけに存在することになる。

しかしそれぞれに生活があって、コミュニティがある。ベルトコンベアから運ばれてくる歯磨き粉のチューブにキャップを付ける作業を8時間毎日25年繰り返す人にも、少しだけのランダム性が人生には残されている。それはその状況から抜け出せられる自由と、顧みずに沈んで行くという自由、甲乙はここにはなく、ただ駒をどう打つか、個人の自由だけがある。仕事帰りにお酒を飲む、家でテレビを見る、家族の世話をする、少しの恋もする。社会には色々な人間がいてそれぞれ生活のレベルというものがあるけれど、このあたりはだいたい変わらないと最近肌で感じる。

職業に神秘的な何かを求めて創造を行うとする人も、それはどこまでも平凡な人間の然るべき姿であって深遠な意味だとか、内的な奥行きだとか、そういうのは関係ない。

書きたいことからどんどん脱線して言っているうちに出発すべき場所を見逃した。

 

僕が書きたかったことは、深夜コンビニに向かう途中で僕が考えていたことなのだけれど、はっきり思い出せない。理想を作るための土台にしようとする今の生活、しかし現瞬間でしかそれはありえないということ、そして今の段階でそれは満たされうるかもしれないし、そういう手段を僕は永遠に今この瞬間には手に入れられないかもしれないということ。なんか違うな。先のことを考えて、いまを計画するのがほとんどの人間で僕もそうなのだけれど、それだと僕の生活やあるべき姿はずっと先にあって、これだとアキレスと亀のごとく永遠に追いつかない。理想の生活を追い求めて、自分を追いかけてしているうちに、一度もこの瞬間を生きているという感覚がなく終わってしまう、そんな気がしたのだ。

 

働いてお金をもらわないと暮らせない。優雅な生活が最高の復讐であるなどというけれど、優雅に見える生活も、その精神性も、実際はもっとジメジメして現実的で、内面は説得力のある虚無感に苛まれている。

 

あらゆる種類の人間がいる。もちろんそこに僕が優劣を付ける権利などない。しかしものを考えたことがないように見える人間はだいたい何も考えておらず、そのほとんどがなんの面白みもない連中なのだと同居人に言われた時、その通りかもしれないと確かに思った。話が合わないから、とかそういうことではなく、本当にそういう類の人はいる。ほとんどがそうだと思う。偏見であり先入観だけれど同時にこれは、確かな実感でもある。四半世紀近くしか生きてきてはいないけれど、面白いと思った人間など一人もあったことはないし、尊敬できるような人物にも遭遇したことがない。異性は性的な対象にもなりうるから、そういう面で単純に興味を持つことはあるけれど、同性に関してはほとんどない。ほとんどはつまらない人間で、それはいい大学に入っているとか、大企業に勤めているとか、ミュージシャンをやっているとかには関係がない。神秘的な生活を送る人間だってことごとく退屈だったし、自堕落な人も、芸術的と言われる人も、会社を経営する人間だって全然つまらなかった。地元にいる友人も、家族も、僕とは全く違う。全く違う。この前、サンフランシスコのピザ屋に連れて言ってもらって、その人はいわゆるハイスペックで、ハーバードの院卒、コンサル、起業みたいなベタベタな感じなんだけれど、僕は途中で何度席を立って帰ろうと思ったかわからない。あれなら家で折り紙でもしてた方がいくらかマシだろう。話が面白い人間になどあったことがないし、共感したこともほとんどなければ、もっと知りたいと感じた相手など、綺麗な顔をした数人の女性をのぞいて会ったことなどない。だから孤独なのだとか言うつもりはないけれど、何かに取り組んでいる、取り組んでいられる、口を大きく開けて笑うことのできる人を全く理解できないし、しかし僕も同じように見えるのだろうと思う。だから彼らにも何か絶望的な悟りみたいなのが根底にも会って、実は時間をかけて付き合ってみれば面白いのだろうみたいな主張もあるけれどそんなことは僕にとってはどうでもよくて、僕は周りの人間を見た目と言動で判断してそのほとんどをつまらないと思うし、こいつは死んでもいいバカだとほとんどの人にたいして思っているし、かと思えば人間全部が愛おしくなったりもする。

 

職業は神秘的ではない。音楽も、演劇も、あらゆる芸術も、これぽっちも神秘的ではない。僕はだからこのどれかに関わってお金をもらいたい。できればそれを操作できる立場で。自慰行為を世間にばらまくだけで、生活に必要なお金と、さらに贅沢と社会的な扱いもよくなる可能性があるからだ。美術館に飾られている絵画はそこに飾られることでありがたみを演出しているけれど、その人間にとっての独白であって、僕には何も関係はない。それを通して僕は何かこの世の神秘的な様相を思い浮かべたりはしないし、その人の過去から何かを推測することもできない。それは退屈で、煙草を吸って酒を飲んでセックスをしている方が数倍納得した瞬間だと言える。神秘的なものがあり得るならそれはこの繰り返しているように見える平凡の数々、その中でしかありえないと思う。矛盾しているけど、まあ、そう言う感じ。

 

世界には構造もなければ法則もないけれど、それらを作り出す視点がある。しかしだからと言ってこの場所が全くのフラットというわけではない。そこには確かに何かがあり、その原因はほとんど無限後退的に遠くに行ってしまうのだけれど、僕個人、もしくは人間、その人間が司る論理体系、納得、傾向からの見え方としては、ただ在るなどということを腑に落とすことは、ほとんど不可能だ。

 

 一人になる時間は必要で、家族といる時や友人といる時の僕は普段のそれとは全く違う。多重人格を疑われても仕方がないくらいに、それは違う。一人一人で僕の姿は変わる。何通りもの自分がそこにはいる。その人と僕だけの世界、というものが人の数だけある。これは当たり前だ。一人になる時でしか、それぞれに感想することができない。まとめて、パッケージ化してしまわないと散らばったままな感じがしてなんとなく気が休まらない。

 

 体が震えたり、魂を揺さぶられる、と言う経験。それはグランドキャニオンを見たときとか、ホームレスを見たときとか、ディスプレイとにらめっこする満員電車の乗客を見たときとか、ビルのてっぺんから落ちそうになったときとか、すごく綺麗な人に会ったときとか、音楽だとか、映画だとか、色とか、音とか、感触だとか、言葉だとか。それは生活のあちこちに散らばっている。ある種のパターンが、脳みそをめちゃくちゃに刺激する。しかしそれはすぐに終わる