DIARY

パラダイス銀河

#025

嫌な夢を見たということしか覚えていない。嫌な夢を見た。右手が少し痺れている。 

古本屋によってから、街の大きな本屋に行った。パエリアの作り方。スペイン料理の本を買った。大量の本が並んでいる。みんな黙ってはいられないのだ。

 

天気がいい。海が見えるところまで車で行く。一緒に来た友人は隣で梅酒を飲んでる。

「なんで海って海っていうん?」

そういうことを聞いてくる。酔ってない。なんでやろって返す。

 

水の塊が目の前に広がっている。「水の塊が広がる」と言い出すことで目の前の現象は個人的経験則と抽象化の流れに一気に引き込まれ、それ自体オリジナルの解釈はどこかへ消える。海とそれを呼ぶことで僕は把握する。濃度3%の塩が溶け込んだ水、地表の70%をこの景色が覆っていること。

小さい頃なぜ海の水は宇宙にこぼれないのか考えるとき頭に浮かんだ地球、太陽系はまるで不思議で、それは本当に僕が存在している世界と同じ場所だとは思えなかった。それぞれの星がファンタジー世界のエレメントみたいでかっこいいなんて思っていた。真っ暗な宇宙に光る球体が並んでるなんてなかなか粋じゃないですか。

 

誰かがそう呼び始める。

海を構成する「氵」と「毎」。さんずいは流れる川、毎は髪を飾った女。母は象形文字。殷時代の甲骨文字のレパートリーに海は入っていない。殷帝国の支配地は海には面していなかったのだ。周代以降になって「海」は金文に登場する。毎には「黒い髪を結う女性の姿」という説があり、そこから「暗さ」が来ているらしいがピンとこない。流れる水と暗さ、それで海。なぜ「うみ」と発音するのかは、小野妹子にでも聞けばいい。表音文字は潔い。

seaならどうか。"SEA"はゲルマン語系統。

Old English sæ “sheet of water, sea, lake, pool,” from Proto-Germanic *saiwaz (cf. Old Saxon seo, Old Frisian se, Middle Dutch see, Swedish sjö), of unknown origin, outside connections “wholly doubtful” [Buck].  

oceanは、古代ギリシャ語由来みたい。

late 13c., from Old French occean “ocean” (12c., Modern French océan), from Latin oceanus, from Greek okeanos, the great river or sea surrounding the disk of the Earth (as opposed to the Mediterranean), of unknown origin.

英語は表音文字だと教わる。しかし由来を古代エジプトのヒエログリフに源泉を見出そうとする説もある。そもそも文字は副次的なもので、言語発生の時点では音素が先に来ていたと考えるべきで、文字言語がない民族はいても音声言語をもたない民族はいない。アルファベットの構造や歴史、漢字のシステムなどは確かに複雑極まりないけれどそんなものはあんまり気にならない。調べればなんとなく底は見えてくる。とんでもない問題はもっとダジャレ的な考え方から出て来たりする。

りんごをりんごと呼ぶこと、appleと呼ぶことに苦しんだりしない。 

 

 

具象はある程度整理されている。 抽象的概念の学習過程についても色々あるけれど、抽象言語自体に意味はない。それをおおうコンテクスト、状況に意味がある。文脈を学習するにつれて、同じ音の言葉が、全く違う意味を持ったりする。

あらゆる言葉については意外と気にならない。それは手段で、道具なのだ。学術的な手法はその道具の精度をあげるだけで、それは真理云々とは一切関係がない、とういうふうに捉えることが僕にとって一番自然な以上、もうそこで落ち着いている。

意外とどうでもいい。映像からやってくる表象まで降りてこない頭に溜まったイメージを解釈すること、吐き出すことにむしろ時間を使っている。

 

 

夜目が覚めて、天井の模様を見つめる。なんとなく家族が死ぬことを考える。僕は存在の内側にいる、という強い感覚がやってくる。個体同士の繋がり。無数の主観にとっての世界。重なる領域。大きさ。僕はずっと有を保持してこのまま流れていく。火葬炉の中で粉々になった後も、無数の有に散らばって質量を保持したまま僕は存在からは逃れられない。納得はやってこない。

地球の何倍も大きい惑星のことよりも、隣で笑う友人が僕には重要で、いつか必ずくるだろう死の瞬間よりも、パスタソースの蓋が固すぎて開かないことの方が問題で、正しさを保証する大きな正しさのことよりも、なんとなく楽しいことの方が大事になっていく。