DIARY

パラダイス銀河

#022

6月になって一週間が経った。

暑くなったり寒くなったり。ブラインダーを開けると朝っぱらから芝刈り機を動かしている男が見えた。うるさい。

 

大学の健康診断に行った。179センチ。伸びていた。最後に測ったのは高校生の時くらいで、確か175とかだった気がする。体重も結構増えて、69キロだった。体脂肪率は8パーセント。抑うつの気が激しくなると気が狂ったよう動かしていた僕の体はいつのまにか、和製タイラーダーデンみたいな体になっていた。抗うつ剤を飲んでさらに不安定になる自分に嫌気がさしたと言うか、とうとうバカバカしくなったのは確か2年ほど前で、その時から気休めは全部やめて、心の低迷も所詮は生理現象の一部なのだと言い聞かせて筋断裂で体が動かなくなるまでほとんど毎日、寮の地下にあるジムで過ごした。一時帰国した時友人が僕を見て、体の大きなアメリカ人達に触発されて僕が肉体改造を試みたのだと思ったらしい。母親も「健全な精神は健全な肉体に宿るって言うもんね」なんて呑気に笑っていた。

どうでもいいけれど、ユウェナリスの風刺詩集に出てくるこの言葉、”orandum est, ut sit mens sana in corpore sano”は肉体が健康なら精神も自ずと健康になるなんて意味ではなく 

”It is to be prayed that the mind be sound in a sound body”彼自身のコンテクストも歴史的背景から意図される文脈も無視して強引に訳すならば、健全な肉体に健全な精神が願われるべき、ぐらいのものではないか。健全な精神が健全な肉体に宿ればいいな、みたいな感じだ。僕の体は過去ないほどに健康的で、活力に満ちている。しかしそれは、僕の生活が本質的な解決とは完全に逆行していた結果だ。頑健になっていく体はむしろ僕が自分自身の問いに押しつぶされて打開できなかった証明ですらある。精神的な葛藤は抽象的なものだと思っていたけれど、それは分解すればとことん具体的なのだ。

どの瞬間も腑に落ちていない。納得して生活を運べない。要するに落ち着かない。どこにいても何をしていても、なぜ自分がこんなことをしているのか、自分がなんなのか、全ての不一致が景色の隅々からやってきて、やがて全部わからなくなる。最近は本も読まないし、真っ向から問題に立ち向かうような気持ちも出てこない。僕はただなんとなく居心地が悪いこの存在の中を、その不快感を横目で常に捉えながら生活している。諦めたと言う感じではなく、手の内どころがないように見える一つの肥溜めの中で腰を落ち着けて居場所を見つけたような錯覚に陥ってるのが、今の僕なのだと思う。まったく、残念。