DIARY

パラダイス銀河

#004

これは日記だ。だらだらとつまらないことを書いてしまうことがあっても多少は許されるはず。誠実になるための場所が欲しいなら自分だけのノートに綴ればいいのだけれど、僕にとってインターネットの公共性というのはある種のモチベーションになっているらしい。こういうのずっと前にも書いていたような。

何もできない日が続いている。風呂にも入れなければ歯も磨けない。ただ同じ場所を見ている。本気で同情を誘いたいならもっとだらだらと醜態を書き連ねることもできるのだけれど、さすがに無粋なのでやめておく。月曜日になれば届くはずのDMAEに過度の期待をしているのは、今回は粉末で注文したからだろうか。吸収率がどうとか。

ベッドのそばには僕からずっと離れてくれない本がいくつか積み重なっている。トルストイの懺悔、シーシュポスの神話、青色本、コンスタンタンのノート、それからシェストフの本もいくつか。パラパラとめくっても、筆圧の強い殴り書きがそこら中に散らばって読めたものじゃ無い。唯一綺麗なチェーホフの伝記をパラパラとめくると、こんな一文を見つけた。

"Perhaps the feelings that we experience when we are in love represent a normal state. Being in love shows a person who he should be"

ずっと前に受けた西洋哲学のクラス最後の授業で、恋に落ちている時だけ私たちは世界の秘密から解放されるかもしれないみたいなことを教授が言っていた。恋に落ちるにしたって僕がこの世界を信用しきれない限りはどうにもならないんじゃない、そんな感じのことを思った。恋を盲目になるための手段と考えている限り僕はダメなのかもしれない。

少し前まで哲学を専攻していたことを誰かに話すと、金にならないだとか、緻密な感情論でしょみたいなことはよく言われたのだけれど一度だけ、あなたはきっと他より少しロマンチックなんだよって言われた時は不思議な気分になった。僕にとって正しくあることは確かに、ある種の格好良さでもあったのかもしれない。

ところでこの正しさのことを書き始めるのは本当によくない。紆余曲折を経ても結局、言葉は音でインクだという結論、それでもなお意味を見出してしまうのは僕らがそういう傾向と機能性をもつ生命体だからだみたいな大雑把な諦めに落ち着いてしまいそうなのでやめておく。今はもう言葉で自分に世界に意味は無いなんて言い聞かせなくても、世界の方から勝手に意味を脱ぎ捨てていってくれる。まあとにかく、無意味という意味に依存している僕は、問いを抱えて答えを出さずに生きていく強さを持ち合わせて無いということだろう。忘れることは意外とできる。けれど一度生活が軋み始めると、僕は原因を抽象の中へとダイブしながら見つけようとする。現実的な解決策などはすぐに飛び越えてしまう。抽象的に絶望的だから生活を進められないのか、生活を進めない理由として世界は空っぽだみたいな絶望を持ち出しているのか。わからない。どっちにしろ生きたいと願う僕の体にしたがって生活を進めなければいけないし、そのフィールドは不可解でそこに僕は意味も無意味も見出すことはできない。わずかに残された誠実さへのこだわりにこだわるなら、僕は、意味も無意味も見出すべきではなく、絶望すら許されるべきでは無い、と言いたい。物理的な傾向性と性質に首輪をつけられた僕の解釈は、もちろんそれらを乗り越えることはできない。僕が死ぬほど欲していた正しさは僕から遠いところにあるどころか、それ自体幻想だったのだ。ということもまた言い切れない(以下、無限後退)

ちょっとだけ一身上の話。芸術専攻に2年ほど前かえてから色々と手を出した。油絵、鉛筆画、写真、彫刻、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、建築、プログラミング、UXデザイン、映像、シナリオライティング、楽曲制作、などなど。ジャズを演奏したりもした。いろんなものに手を出して、なんとかストレスが少なく、かつある程度の納得感もあって社会でやっていくための手段を血眼になって探していた時期だった。自分で変化を作っていける作業じゃ無いと多分僕は耐えられない。で、消去法的にアートを選択しのだけれど、ちゃんとやっていけるだろうか。ニーチェは「23歳になって職業が決まっていなくてなんの問題がある。高貴な人間は職など持たない」なんていってたけど、そうはいかない。自己陶酔に甘んじている間にも僕の筋肉は分解されていき、いずれは飢える羽目になる。哲学で暇をつぶすにも食っていけないとどうしようもない。そういえば日本食が少しだけ恋しい。このままアメリカで就職するんだろうか。友人にパリの大学院を進められ、英語のカリキュラムもあるってことでそっちにも気持ちが少し揺れている。モラトリアムを無理やり延長させるのには少し抵抗がある。解釈はもう十分だし、もっと強い気持ちが欲しい。それは多分砂漠の真ん中で星を見たり、とてつもなくうまい料理を食ったり、可愛い人とセックスをしたりしないといけない。それから僕は移動を続けなければいけない人種なのだと最近思う。サバンナで動物と追いかけっこをしたり、アラスカでオーロラを見ながら風呂に入ったりしたい。いくら慾は虚しいだけだなんていってみても動物としての僕が異常なほどそれに魅了されている。

来年からはニューヨークに戻ることになりそうだ。この前いった時はとても寒かった。JFK空港は殺風景でよくないな。就職するなら日本かな、アメリカかな、ヨーロッパかな。糞食らえ。就職なんてしたくない。大量のお金を手に入れつつ、種々雑多な欲を贅沢に満たしつつ、タワーマンションで暮らしつつ、実存を憎んだりしたいんだ。承認欲求の最たるものは、間接的に関わる他人の自殺じゃないかと最近思う。例えば僕の創作物によって誰かが自殺したりしたらそれはとんでもなく気持ちいいんじゃないかなんて。ウェルテルの悩みみたいな感じかなー。ゲーテは内心嬉しかったんじゃないか。そう。僕は全部手に入れて全部否定したい。ヒエラルキーの頂点でちやほやされながら自分に酔っていたいんだ。それでも何もわからない不安やらふじょうりやらを中途半端にぶら下げならがら、絶望に飲み込まれるなんてことはない、絶望的にすら僕たちはなるべきではない。それほど確かなものなどないんだ。暇な時文学やら哲学書やらを適当に捲っていればいい。鎮静剤程度に。そんな風に生きられるだろうか。みんなはどんな風な世界に生きているんだろう。あー。とりあえずもう少しだけ熱中と陶酔を夢見て探すことにしよう。