DIARY

パラダイス銀河

#081

死ぬまでのわからない時間を埋めるに値する作業とか生活とか、そんなものもう見つからない気がしている。死ぬのもなんか勿体無い。痛いのとかはすごく嫌だ。酒の席で初めてあった人たち。僕だけが生きていない。よく笑ったりする。話をずっと聞いているけれど、何もわからなくなって、何も話すこともない僕は電話をするふりをして店をでる。間違った方法で人生にがっかりしてるという気配もどうでもよくなって、空っぽなまま毎日が忙しい。朝起きて顔も洗わないといけないし、歯も磨かないと、飯も食わないといけない。生活は難しい。死に向かって、同時に退屈を満たしている生活のあれこれが欺瞞に映らなくなる日は多分こない。僕はそんな自分を認めたりしないだろう。絶望はもう楽しくない。ただわからない。文字は頭に入ってこない。部屋に物は増えない。

#080

久しぶりに古本でも買いに行こうと思い街まで。天井高くまで積み重なっていた。シオランの思想の黄昏があった。タイトルだけ知っていた。シオランはずっと読んでいた。ある時点から、その主張がただくどいとしか思えなくなり読むのをやめた。しかし僕が彼の提起する、ある意味では”本当の”問題を乗り越えたということではなく、グロテスクな問いかけに僕は楽しさを見出せなくなっただけなのだ。あらゆる問題。解決したいところは同じ。哲学がすっかり面白く無くなったのは、解決したのではなく単純に飽きたのだと感じてなんだかバカバカしくなった。哲学には忘却があらかじめ用意されている。他のあれこれは忘却を探している。そんなふう。

#079

恋をすると人は凡庸になると行った主人公。憲法改正。谷川俊太郎。

様々な字体。他人の自意識。中央線。知らない曲ばかりのレコードの棚。トマトジュースとウォッカ。タバコ。未成年。エスカレーター。渋谷。脚

日付が変わる頃まで空いている喫茶店は、私鉄だけが通るここでは少ない。全然顔が良くない女店主が無愛想に席に案内した。アイスコーヒーを頼んだ。タバコが吸いたかったけれど灰皿がなかったので吸わなかった。喫茶店に訪れた人が書くノートにはタバコとコーヒーが良く合うと書いてありそこで吸ってよかったのだと知った。アイスコーヒーは空になっていた。寂しいから渋谷まで行こうかと思った。人がいるところにいけば別の寂しさがやってきて、僕はそちらの方が好きだ。インターネットで絨毯を買った。僕の境界線から外側が世界の全てで、僕はそちら側にはついにはいけず、永遠に皮膚の内側だけで完結し続ける。事が起こっているのは外側、街の灯のその奥なのに、僕は少し柔らかい気味の悪い境界線から出る方法を知らない。フロアで踊る全員も、僕にとっては世界そのもの、彼らにとっては内に続く孤独。

内臓と脳みそ取り出して骨を砕いても見つからない宇宙

 

#078

It's supposed to be significant change for them. Everything we do and will do in life may be far from our ideal as we dreamed in childhood. Those fake depression's structured and be interpreted as truth in the society which confuse a few romantists in a weird way. Chances we can controll are already gone yet nobody going to realize it's already lost since we're still chasing a mirage of ideal aspects of existence. Nothing we do, everything will pass without any recognition just the way as it's being done. 

#077

全体の把握への強迫観念めいた要求が、ずっと昔からあったように思う。例えば大きな都市に住むことになればその袋小路の一つ一つ、裏通り、抜け道、大通りを埋め尽くすビル、通りを歩く人の傾向、それから都市計画の過去50年ほどの資料なんてものまで自分の理解の中へ置こうと、大きなイメージをつくり上げるために調べ尽くす。知りたいというよりは知らないことに耐えられないからそうするのだろうと思う。こういった何かが把握の外にあることを避けるある種のネガティブな呼びかけが自分の中でどんどん強くなって、20歳を超える頃にはほとんど病的なまでになっていた。あらゆる新しいものは、これまでの解釈の系譜の延長にあるようなものは、つまり延長として捉えられる行儀のいいものならすんなりと入ってくるし予想の範疇なので不安になったりはしない。目に見えるものから見えないもの、古今東西あらゆるものの成り立ち、相関、構造、それらの歴史的な役割や現在の立ち位置に到るまで、世界のありとあらゆるものを理解の中に入れておかなければ、少なくともそのプロセスの途中にいなければ耐えられないと思う時があった。恐ろしく恣意的な秩序付けに、全体的な理解への憧憬を僕は写していた。それはほどなく限界を迎える。一人の人間を完全に理解することなど不可能で、一つの街の動きや歴史の細部に至るまでを解釈するのも不可能なのだ。それらは非常にダイナミックで、恐ろしいくらい緻密で複雑に絡まり合っており、理解の方向は、無限に広がってしまう。個体の数ほど解釈の数があると思い知った時幼い僕は本当に死にそうになった。僕固有の正しさは文字通り個人的なもので、僕の皮膚の外に出てればそれらは説得力をほとんど失い、他人のレンズを歪ませるほどの力は毛頭持ち合わせてないということを知った。

しかし個人的な秩序付けに取り憑かれたままの僕がいる。誰でもがそうなのだろうか。一人の作家を知るためにはその人物の残したあらゆる資料に当たろうとする。それをするには人生は短すぎるし、一つの対象に肩入れすれば他の全てがおろそかになる。何かの全体像を知ろうと思えばそれにまつわるあれこれを隅から隅まで調べ尽くす必要がある。しかしそれをすればそれ以外のものごとのあり方、またはその可能性というものを見逃す。一つの物事が孕んでいる潜在的なパターンがイメージの奥底に取り憑くと、次の対象に映る時にそれがあらかじめ投影される。しかしそういうのはだいたい後になってわかる。

今の僕はというと、しかし依然としてあらゆることへの解釈への要求はあるので、何かを知らない自分というものに常に安心感はなく、とても落ち着かないし、気持ちが悪い。しかし先ほどもいったように全て、文字通り全てを理解のうちへおくことなど、バカバカしいけれど、本当にできっこない。そんなことをして入れば、まず解釈のおおもとであるこの”自我めいた”自我からはっきりさせないといけないしもちろんそんなものは誰一人として解明していないしこれからできたとしてもそれが一方通行的な解釈ならばそれに僕が納得することはないだろう。だから今の僕は、あらゆることの表面を見て、その「感じ」を汲み取って後の全てはなんとなく予想してまあこんなものなのだろうなというところに甘んじている。没頭することに恐れているのは、それ以外を汲み落とすことへの恐怖感なのだ。不毛なものに時間を裂くことが美しい場合とそうで無いものが有り、それが観念的であれば美しく無いと思う。正しさのベールは未来の自分が剥がす。しかしこれでは人生は進んでいかないだろう。楽しくないだろう。具体的なアクションには英雄的な精神が必要なのだろうか。綿密な理解と全て物事同士の関わりとその最終的な印字が現在の僕の生にどういう力を加えているのか、つまり僕はどこに、どういう場所に立ち一体なにをしているのか。それが幼い自分が言葉にできなかったクエスチョンなのだけれど、問いかけそのものが自壊していることは想像に難くない。理解への欲はある。しかし人間的な理解は人間である僕にとって用意されたお誂え向けの手段であって、それらに全幅の信頼を置ける人間はよっぽど幸せなのかもしれない。あらゆる学問は恣意的だろうか。独善的だろうか。ぶくぶくと膨れ上がってとり返しのつかなくなってしまった醜い視点だろうか。言い切りたい僕と、言い切れない僕がいる。あらゆる保留された理解と結論は、その墓場へと行き着いている。正しさは虚像か。納得は人間的な納得か。知識は有効かどうかだけであるか。世界を作った人間という考えうる最も強力な第三者が何かを真実だと保証しても僕は納得しないだろう。その第三者を保証する高次の存在を僕は求めるだろうし、これでは無限後退だ。腑に落ちる解釈をよこす文面は単にこれまで親しんでいる思考回路に一致したというだけだろう。なんだかよくわからなくなった。疲れた。おやすみ

 

 

渋谷駅

目が覚めて誰もいない。ボサノバアレンジの耳障りなJPOPが部屋に響いている。天井が妙に高い。起きたら誰もいない方がいいなと思いながら夢を見ていた気がする。なりっぱなしのブラウン管。毛布が湿っている。シャワーを浴びようとするけれど、無意味に広い風呂場。一番嫌いな色の光がエレベーターに満ちている。真っ白い電球がこの世から消えれば人間の感情は少しましになる。非常階段で一階まで降りて、備え付けの自販機でビタミンの飲み物を買う。

道玄坂をふらふらとおりる。スクランブル交差点に人影はほとんどない。みんなどこかに帰る。東京の繁華街も結局はこの時間になればガランとする。ビルの根っこにもたれかかる不細工な男と化粧の濃い女。見るに耐えない顔がディスプレイの光に照らされている。多分そのへんのインターネットを生きている。彼らはそのへんのインターネットに住むことができる。よく見る顔。選ばれた大勢の幸運な人たち。正しく絶望したように装って演出された死んだ目。死んだ目をした広告塔。それが実存の不安のせいなどではなく単に過剰なマスターベーションのせいだと呟いた同級生。へんな匂いのする迷路みたいな自意識。

暗い歩道がもっと暗くなる高架下で、チューンの合わないギターがなっている。「I feel best when I'm alone 君の持ってる淡い色のバックは白黒ださない君の生き方と同じ」というフレーズ。歌う男のバッグは汚れた白のレザーだった。電車はまだこない。街でドロドロと朝に溶けていこうとする僕たちは、このまま爽やかに爆発する。バラバラになったその内臓は大量の清潔な泡となって渋谷の街にふり注ぐ。馬鹿馬鹿しいエネルギーを綺麗さっぱり洗い流す。これ以上誰も生まれてこない世界で僕たちは歳をとらない。これでいいと思える生活はない。人生もない。これでいいと思える人も場所も時間もない。生活の充実などという虚像はとうの昔に犬に食わせておくべきだったのに、気付けば僕がすっかり犬になっている。誰かの体液まみれの地面。這いつくばりながら生活を続ける。欠落にこそ落ち着きを見出す。たまに見える太陽の光。高層階。化けの皮が剥がれた人間生活。知恵遅れ用の舞台装置にもう一度綺麗な布を被せてありがたってみる。手を合わせてみる。どこかで目を潰さなければならなかった。楽しい人生。