DIARY

パラダイス銀河

#074

夜に閉め忘れたカーテン。窓から差し込む光はぼんやりとしていて、朝はすでに終わっていた。もう少しで届きそうな携帯電話に手を伸ばしたけれど届かなくて、手前に積んである本の一番上をとってパラパラとめくった。馴染みのない固有名詞がそこには並び、とても高い山に登ったことについて書かれた章の終わりの方で、いつか挟んだしおりが顔に落ちてきた。”暑さは慎重に私を殺し、寒さは早足で私を殺そうとした”とある。ぶよぶよした肉の塊が山の斜面の統一を乱す風景。天井の模様に焦点が合う。コンタクトレンズを外し忘れていた。

「どうしたって君は幸せになれない。私が保証しよう」アスレチックに登って遊んでいた、まだ小さな体の僕を見上げて男はそういう。「どうせ死ぬんだ、私が保証しよう。」今度は図書館の窓際の席で、方程式を見つめていた僕に話しかけてきた。交差点、ゲームセンター、陸上競技場のトラック。どうせ終わってしまうのだ、もう終わりにしようと 繰り返した。

 カーソルの点滅は僕の視線に気付いたのかゆっくりとなっていき、リズムは終わりついには点滅をやめて、消えてしまった。せいぜい死ぬまでの時間潰しだと言い聞かせてから腰を上げても、楽しいはずの時間つぶしは人生の代わりになってはくれない。から騒ぎまでの確かな文脈。ただ楽になりたいだけの僕。種類の違う不可能だけが交差している。

#000 岩波文庫

「岩波岩波岩波〜」そう叫びながら本屋で無限の広がりを見せるコミック・雑誌コーナーを走り抜けていった少女の残り香が僕のコートを翻した。軽い足取りが嘘のように、岩波文庫の棚を見上げた少女の顔は固まったように表情を失って、それから一冊を手に取ろうとしてはやめるという一連の動作を永遠に繰り返している。

SMOKINGROOMと書かれた扉を重たそうにあげる彼女の後ろ姿を見ながら、僕は深く椅子に座り直す。画面の上部が割れたスマートフォンからバニラの匂いがする。大きくなった彼女は岩波文庫を握りしめながら岩波文庫でできたテーブルに肘をついて、岩波文庫を断裁して巻いたタバコを吸っている。

「ボリスヴィアンの本が岩波にはないの。私それが許せないけれど。」彼女のタバコの先から僕の毛穴にまで入ってきた言葉の羅列が、そっくりそのまま脳みそまで染み渡って体のどこかに吸い込まれた。体の中の異物感を追いかけて、僕は僕の袋小路にまた捕まった。生まれたところはもう春らしい。両親から届いた手紙は、親しい友人の死を知らせるものだった。僕は彼の名前を聞いてもそれが誰だったか思い出せなかった。

 

#073

下北沢のマクドナルド。仕事でたまに会うバンドマンがテーブル席に一人で座っていた。こんにちはと言うとハッとした表情でこちらを見て笑った。雰囲気でやりたくないのに雰囲気で音楽をやってしまうと言うようなことを1時間ぐらい繰り返し言っていた。言葉におこしたあと、逃した部分全てが本当に言葉にしたかったことなんだと思うと死にそうになると言う。

話を聞いて、フォトグラムの写真を思い出した。印画紙に直接モノを置いて感光させることで、モノのシルエットが完成時に浮かび上がってくる。シルエットは真っ白で、それ以外は真っ黒。以前現像作業中、赤い光で満ちた暗室の中で小さな紙の上に潔く浮かび上がってくる白い形を見て、言葉はこの黒色のようにネガティブを満たして白を浮かび上がらせたりすることはできず黒を構成するその破片だけになるだけで、結局何も証明できないと思ったりした。光は印画紙に置いたモノ以外にしか当たらない。つまり何も置かれていない空間は感光オーバーで真っ黒になる。その黒は結果的にシルエットを生むことになる。

口から出てくるデタラメな台詞は、自分が本当に言いたいことはこれではないということを思い知らせるだけの拷問器具のようで、それが真っ白な心象を描きだすことは永劫なく、ただ不可能という実感だけ空虚な音になって空間をさまっている。僕は誰も知ることができないし、誰も僕を知らないでいる。世界について何も知らないし何も知ることはできない。何も知ることはできないと言い切ることもほんとうはできない。あらゆる肯定は宗教になった。

まずいビッグマックを食べ終える。バンドマンはとっくに帰っていた。

#072

芸術大学の学生が開く個展、それから若い芸術家、ベテラン芸術家のギャラリーなどをここ2週間ぐらいで回った。若い世代が作った作品は、世界の、とりわけ人間の活動に対してシニカルで批判的な表現をしているものが多い。インストレーションでは意味が散らばりすぎて統一感がないものが多くて酔った。どれもこれも一人の作家が作っていると言われていれたら納得してしまう。ギャラリーのオーナーは「無国籍的な芸術は普遍的なテーマを扱うことに長けている」と威勢良く話をしていたけれど、どれもこれもアプローチの仕方は二番煎じだった。ダダイズム以降の現代美術の系譜をおさらいしてるようなものが真っ白な空間には並べられていて、美術史の最後の方のページをパラパラとめくっているような気分になった。芸術大学の学生グループと多分その卒業生で構成された展示などでは、お互いに作品を褒めあったり、先輩の作品をありがたがったりしていて、社会だった。単純に「売れる」という作品、時代を作っていけるような作品に共通するある種のポップさは、芸術になど毛頭の関心がないような人々にまでそれを届かせるのに必要なエッセンスなのだと思う。思考が始まった時点のカオスがそのまま散りばめられた作品たちは、避けられるレベルの恣意性に絡まっている。

作品のメディウムには、最近の生活の至近距離にあるものがしばしば使われている。インターネット、スマートフォン、ディスプレイ、ある種の偶像。そこにナショナリズムを見ることはほとんどない。欧米のキュレーターたちが一昔前に関心を示していた作品群の空気感がそっくりそのまま東京のギャラリーには散らばっている。若い日本人が作った「無国籍的」な作品からは、カビ臭い愛国心こそ匂ってはこないけれど、圧倒的な熱量を必要とする普遍的なテーマを扱うには、少々エネルギー不足にも思えた。

人間活動の虚しさや不条理に対して懐疑的な視線を向けたり、それをシニカルに表現してみるのもいい。しかしそれだとお遊戯で、趣味で、そこに深刻さはない。自己完結的な知識を鼻にかけた学者が大衆をむやみに批判するのと何も変わらない。正しく問うことができればすなわそれが答えだと誰かが言った。しかし問いを孕んだ作品はない。根本的なテーマを扱おうとしているのはわかる、時代性を反映させようとしているのはわかる、しかし個人的な葛藤の歴史という部分が欠落しているように見えて(あるいはそれを作品の要素として入れ込んで(?)いないのかもしれないが)これなら暖かい部屋で美術史を読みなおす方がいくつかマシだと思った。寒くて風邪ひいたっぽいし。

 

ps. 今回の話を知人にすると「何もしないよりはマシだ」と言っていたが、これなら何もしないほうがマシだと僕は思う。なんとなく絶望したりなんとなく綺麗にやるなら自室で大人しく死んでればいい。中途半端なユーモアに逃げるくらいなら語り得ないことについてはほんとにSTFU。 

 

 

 

 

 

 

 

#071

動けないでいる。なぜだかわからない。誰かのせいではない。

街を一日中歩いても、例えば道でくたばっているホームレスを見ても、ボロボロの哲学書を開き直してもピクリともしない心を、僕は許している訳ではない。しかし以前まで瞼をひらけばたちまちやって来た重さや苦しさは、僕にとっての生きがいだったのだと今では思う。考えることができなくなってしまったのか、何を考えればいいのかわからなくなってしまったのか、何かを重要視したり、深刻になったりすることは、この先死ぬまでほとんど不可能のようにも思える。苦しめない苦しみだけがある。鮮やかに色を変える日没の空も、それは美しさという形で僕を落ち着かなくさせていたのに、今では何も感じないというところで僕の中の何かが死んだことだけを伝えている。

深刻に生きることは幸せなことなのだ。何かに捉われたい。生活を明るい誤解で満たすべきで、正しさを離れることの不誠実にかこつけて何もできないと御託を並べていた日々の精算をさせられているのだろうか。そんなことはない。何かに心を悩まされたいという悩みは青年的な一過性のものではない。僕は今言い切る。僕は地に足がついている。

お酒を飲んで楽しくなった夢を見た。働いたこともない僕にはわからないはずの誰かと楽しくワイワイやる夢を見た。そこそこ可愛い女の人、そこそこ気が許せる友人、そこそこ美味しい食事が出てきた。世界の不条理も、存在意義の絶望も、身を貫くような美しさもどこかへ消えてしまったこの生活で、僕は何を始める。死ぬにはまだ何かをしてないような気がする。やりがいなど何かをはじめてから湧いて出て来るのだとどこかのバカが言っていた。僕は阿保にならなければいけない、楽しい人間にならなければいけない。僕が毛嫌いして来た何も知らない気の触れた醜い人間になりたい。これ以上の憧れはない。 

 

 

 

 

 

#070

昔読んだ本の冒頭で、大切なことは二つだけだという一文があった。それはきれいな女の子相手の恋愛、それからある種の音楽だ。他のものは消えていい。なぜなら醜いからだという。

破壊に至る過程こそコインの表裏のように快楽に面している。それは些細な衝動で一気に報酬に変わる。僕がボクシングのリングで一回り大きな黒人から強烈な右フックを食らうほんの一瞬間前に頭を下げて避けられたのは、いつもよりコンタクトレンズがフィットしていたからであって、この前までつけていたハードタイプだとすぐにずれて僕は脳震盪どころか左目の視力まで失っていたかもしれない。彼はそのふた月前の対戦相手の左側の肋骨を全部破壊してそれが肺に刺さって相手は死にかけた。殴られたり殴ったりしているといろんなことを忘れる。人間の顔は思っているより硬いということ。手の甲にかいた汗が気持ち悪いということ。目の前の肉の塊を動かなくなるまで打撃することだけに集中する脳みそはくだらない思考回路を動かすことをやめて、身体中にコレクションされた痛みの認識だけを促す。後頭部を殴られた痛みで僕は初めてそこに頭があることを感じ、ふくらはぎをけられた痛みでそこに足があることがわかる。痛みが体の境界線を作っていく。タバコのおかげで呼吸が乱れてくるけれど、呼吸が乱れる程度なのでやめない。僕は40歳まで生きられるだろうか、そうは思わない。セックスは生活にリズム感を与えていたのに、今ではもう昨日と今日を区別することを避けるようにそれは始まって、始まって、終わってまた始まる。

アルコールも退屈だしマリファナもつまらない。生活を忘れることはできない。体があつくなって空間に溶けていくように感じるほど頭は冴えきっていく。陶酔する力がなくなっているのは今はまだある対象に限定されているけれど、そのうち僕はいろんな感性を失っていくかもしれない。その時が僕の死ぬべきタイミングなのだ。

綺麗な形の顔に当たり前のようにくっついている口に、傷だらけの人差し指と中指をゆっくりと入れていく。彼女の唾液が最初少しだけしみるけれど、そのあとすぐに何も感じなくなる。口蓋はザラザラしていて、熱を持った舌が指の間を掻き分けようとする。唾液が口から漏れてきて、綺麗な顔はどんどん崩れていく。指を抜いてもしばらく口は開いたままで、色素の薄い瞳がじっとこちらに向いている。僕が感じた肉の先の骨の硬さは、それを見られるのは何年後か彼女の火葬が終わった後だ。その時まで生きていれば、体温を失った彼女の頭蓋骨に触れられるかもしれない。

 

 

#069

カタカナの多い話。

あいも変わらず喫茶店にいく。3ドルコーヒーといっぱいのおかわり無料。右斜め前に座った小太りの若者、おそらく20代半ばの男にニーハオと声をかけられる。僕は中国人じゃないし中国人に間違えられるのがとんでもなく嫌いだと言ってそれからFワードを付け加えた。彼は謝って、すまないそれしかアジアの挨拶の言葉を知らないという。「アジアの言葉」ね、なるほどと思った。とりあえずアジア人を見つけたらニーハオと声をかけるのは下手したら侮辱になるからやめといた方がいいよと笑顔で伝えた。ごめんごめんと言いながら距離を詰めて来る。レイバンのボストン型のメガネ。最近よく見る高級なブーツ。

何から話したかわからない。サンフランシスコ出身らしい。それからユダヤ人だと言う。かなり厳しいユダヤの家系らしい。ドイツはいい国だよね、いい車も作るしビールもうまいというと一瞬変な間が空いたのはそのせいなのかなと思った。僕は東京からきたといった。実際は兵庫県出身だけど極東のマイナーな県をこんな田舎に知ってるやつなんていないだろうからいつもフロムトーキョーということにしている。近くの大学4年で政治学を専攻しているらしい。少し前に見たウォール街の映画に出てきた役者に似ているなーと思って調べたらジョナヒルという名前の俳優だった。そっくり。ただ背が高い。6フィートはある。かかとの高いブーツがさらに高くしている。僕だって同じぐらい背が高い。2杯目は無料のコーヒーをカウンターまで受け取りに行って、席に戻った時には彼はラップトップをいじっていた。席に着くとおもむろに、これからイスラエルにいくんだと話し始めた。中東の戦況を実地で学びにいくらしい。以前イスラエルのバーであった可愛い女の子に声をかけると、明日からシリアに行くからデートは無理だと断られたという話をした。とんでもない。来年からはハーバードのロースクールにいくという。なんだか納得だった。後から聞けば両親ともにアイビーリーガーだそうで、父親はグーグル相手に女性社員達が起こした市民権利訴訟のトップを担う弁護士らしい。実家があるサンフランシスコではスタジオアパートほどの大きさで月3000ドルだという。高すぎる。ボンボンだ。先月メルセデスを交差点の真ん中で大破させたらしい。4万ドルを相手に払って、70マイルで一般道を走ったことに対してのペナルティのお金も合わせると5万ドル近く飛んだらしい。当たり前だ。

戦争と国際情勢をあつく語ってくる。いろんな言葉を使うなーと思った。ものをよく知っているらしい。神学者のラインホルドニーバーを引っ張ってきたと思うと、オリエンタリズムのサイード、ファノン、それからセザールにまで至った。ポストコロニアルリズムをこれだけ熱く支持するのは彼がサンフランシスコ出身でユダヤ人だということと何か関係しているのかなんて考えているうちに、今度はポスト構造主義に移った。フーコーはゲイだということ、デリダは嫌いだということ、カミュがヒーローだということ。ここには僕も大いに賛同した。中学も終わるころ僕はカミュのシーシュポスの神話をページがボロボロになって抜け落ちるまで読んだ記憶がある。昔古本屋で見つけたカミュの日記帳の最初のページに、「美しい地中海を見ている時ほど私が存在の不可解さを鮮明に感じている時はない」という一文があったことを思い出した。コーヒーをもういっぱい頼みに行く。カウンターには違う店員がいて、洒落た帽子を被っていたのでいい帽子だねと行った。誕生日に友人にもらったらしい。誕生日はいつと聞くと9月28日だという、僕と父親と同じだよというとすごく嬉しそうな顔をしてほんとかよと言う。本当は父は9月26日生まれだけどまあ細かいことはいいでしょう。座っていたカウチに戻ると、今度は彼がアップル製品について話し始めた。一番新しい機種が1000ドル以上すること、それがラップトップと同じ値段だと言うこと、アップルはオウム真理教に近いなどとわけのわからないことを言っていた。オウム真理教をなんで知っているんだと聞いたけど有名な話だよと言われて終わった。ちなみに僕は麻原彰晃が捕まった日に生まれたんだ。父親は愛車のシトロエンのラジオから流れる麻原彰晃逮捕のニュースと僕が生まれたことを知らせる病院からのニュースを同時に聞いたらしい。と言う話もした。あとはなんだ。日本にも来るらしい。東京と北海道、大阪、それから福島にも行きたいらしい。防護服と150ドルのガスマスクも注文したらしい。店に入って来る女の子全員を全身舐め回すように見ているのでそういうのはあからさますぎるからやめたほうがいいかもしれないよというと全く聞いてなかったようで、そんなに可愛くないなーなんて言っている。キリンビールが好きらしい。海沿いの街まで行くと普通に手に入るそうだ。ロシアに行きたいという話、尖閣諸島の話、安倍首相、ドナルドトランプ、バーニーサンダース、金持ちの知り合いの娘がとんでもなく嫌な奴だという話、そんなものかな。途中からそいつの友達のサウジアラビア人がやってきてこれまた背が高い。メガネの度が強すぎてレンズの奥側だけ顔の輪郭が大きくへこんでいるように見える。建築専攻。アートの要素をもっと入れたいらしい。大きいウィンドウズのPCと喫茶店に持って来るにはデカすぎる電源プラグをぶら下げてコンセントを探している。

 

書くの疲れたのでここまで。読み直すのも面倒なのでこのままで。乱文