DIARY

パラダイス銀河

#070

昔読んだ本の冒頭で、大切なことは二つだけだという一文があった。それはきれいな女の子相手の恋愛、それからある種の音楽だ。他のものは消えていい。なぜなら醜いからだという。

破壊に至る過程こそコインの表裏のように快楽に面している。それは些細な衝動で一気に報酬に変わる。僕がボクシングのリングで一回り大きな黒人から強烈な右フックを食らうほんの一瞬間前に頭を下げて避けられたのは、いつもよりコンタクトレンズがフィットしていたからであって、この前までつけていたハードタイプだとすぐにずれて僕は脳震盪どころか左目の視力まで失っていたかもしれない。彼はそのふた月前の対戦相手の左側の肋骨を全部破壊してそれが肺に刺さって相手は死にかけた。殴られたり殴ったりしているといろんなことを忘れる。人間の顔は思っているより硬いということ。手の甲にかいた汗が気持ち悪いということ。目の前の肉の塊を動かなくなるまで打撃することだけに集中する脳みそはくだらない思考回路を動かすことをやめて、身体中にコレクションされた痛みの認識だけを促す。後頭部を殴られた痛みで僕は初めてそこに頭があることを感じ、ふくらはぎをけられた痛みでそこに足があることがわかる。痛みが体の境界線を作っていく。タバコのおかげで呼吸が乱れてくるけれど、呼吸が乱れる程度なのでやめない。僕は40歳まで生きられるだろうか、そうは思わない。セックスは生活にリズム感を与えていたのに、今ではもう昨日と今日を区別することを避けるようにそれは始まって、始まって、終わってまた始まる。

アルコールも退屈だしマリファナもつまらない。生活を忘れることはできない。体があつくなって空間に溶けていくように感じるほど頭は冴えきっていく。陶酔する力がなくなっているのは今はまだある対象に限定されているけれど、そのうち僕はいろんな感性を失っていくかもしれない。その時が僕の死ぬべきタイミングなのだ。

綺麗な形の顔に当たり前のようにくっついている口に、傷だらけの人差し指と中指をゆっくりと入れていく。彼女の唾液が最初少しだけしみるけれど、そのあとすぐに何も感じなくなる。口蓋はザラザラしていて、熱を持った舌が指の間を掻き分けようとする。唾液が口から漏れてきて、綺麗な顔はどんどん崩れていく。指を抜いてもしばらく口は開いたままで、色素の薄い瞳がじっとこちらに向いている。僕が感じた肉の先の骨の硬さは、それを見られるのは何年後か彼女の火葬が終わった後だ。その時まで生きていれば、体温を失った彼女の頭蓋骨に触れられるかもしれない。

 

 

#069

カタカナの多い話。

あいも変わらず喫茶店にいく。3ドルコーヒーといっぱいのおかわり無料。右斜め前に座った小太りの若者、おそらく20代半ばの男にニーハオと声をかけられる。僕は中国人じゃないし中国人に間違えられるのがとんでもなく嫌いだと言ってそれからFワードを付け加えた。彼は謝って、すまないそれしかアジアの挨拶の言葉を知らないという。「アジアの言葉」ね、なるほどと思った。とりあえずアジア人を見つけたらニーハオと声をかけるのは下手したら侮辱になるからやめといた方がいいよと笑顔で伝えた。ごめんごめんと言いながら距離を詰めて来る。レイバンのボストン型のメガネ。最近よく見る高級なブーツ。

何から話したかわからない。サンフランシスコ出身らしい。それからユダヤ人だと言う。かなり厳しいユダヤの家系らしい。ドイツはいい国だよね、いい車も作るしビールもうまいというと一瞬変な間が空いたのはそのせいなのかなと思った。僕は東京からきたといった。実際は兵庫県出身だけど極東のマイナーな県をこんな田舎に知ってるやつなんていないだろうからいつもフロムトーキョーということにしている。近くの大学4年で政治学を専攻しているらしい。少し前に見たウォール街の映画に出てきた役者に似ているなーと思って調べたらジョナヒルという名前の俳優だった。そっくり。ただ背が高い。6フィートはある。かかとの高いブーツがさらに高くしている。僕だって同じぐらい背が高い。2杯目は無料のコーヒーをカウンターまで受け取りに行って、席に戻った時には彼はラップトップをいじっていた。席に着くとおもむろに、これからイスラエルにいくんだと話し始めた。中東の戦況を実地で学びにいくらしい。以前イスラエルのバーであった可愛い女の子に声をかけると、明日からシリアに行くからデートは無理だと断られたという話をした。とんでもない。来年からはハーバードのロースクールにいくという。なんだか納得だった。後から聞けば両親ともにアイビーリーガーだそうで、父親はグーグル相手に女性社員達が起こした市民権利訴訟のトップを担う弁護士らしい。実家があるサンフランシスコではスタジオアパートほどの大きさで月3000ドルだという。高すぎる。ボンボンだ。先月メルセデスを交差点の真ん中で大破させたらしい。4万ドルを相手に払って、70マイルで一般道を走ったことに対してのペナルティのお金も合わせると5万ドル近く飛んだらしい。当たり前だ。

戦争と国際情勢をあつく語ってくる。いろんな言葉を使うなーと思った。ものをよく知っているらしい。神学者のラインホルドニーバーを引っ張ってきたと思うと、オリエンタリズムのサイード、ファノン、それからセザールにまで至った。ポストコロニアルリズムをこれだけ熱く支持するのは彼がサンフランシスコ出身でユダヤ人だということと何か関係しているのかなんて考えているうちに、今度はポスト構造主義に移った。フーコーはゲイだということ、デリダは嫌いだということ、カミュがヒーローだということ。ここには僕も大いに賛同した。中学も終わるころ僕はカミュのシーシュポスの神話をページがボロボロになって抜け落ちるまで読んだ記憶がある。昔古本屋で見つけたカミュの日記帳の最初のページに、「美しい地中海を見ている時ほど私が存在の不可解さを鮮明に感じている時はない」という一文があったことを思い出した。コーヒーをもういっぱい頼みに行く。カウンターには違う店員がいて、洒落た帽子を被っていたのでいい帽子だねと行った。誕生日に友人にもらったらしい。誕生日はいつと聞くと9月28日だという、僕と父親と同じだよというとすごく嬉しそうな顔をしてほんとかよと言う。本当は父は9月26日生まれだけどまあ細かいことはいいでしょう。座っていたカウチに戻ると、今度は彼がアップル製品について話し始めた。一番新しい機種が1000ドル以上すること、それがラップトップと同じ値段だと言うこと、アップルはオウム真理教に近いなどとわけのわからないことを言っていた。オウム真理教をなんで知っているんだと聞いたけど有名な話だよと言われて終わった。ちなみに僕は麻原彰晃が捕まった日に生まれたんだ。父親は愛車のシトロエンのラジオから流れる麻原彰晃逮捕のニュースと僕が生まれたことを知らせる病院からのニュースを同時に聞いたらしい。と言う話もした。あとはなんだ。日本にも来るらしい。東京と北海道、大阪、それから福島にも行きたいらしい。防護服と150ドルのガスマスクも注文したらしい。店に入って来る女の子全員を全身舐め回すように見ているのでそういうのはあからさますぎるからやめたほうがいいかもしれないよというと全く聞いてなかったようで、そんなに可愛くないなーなんて言っている。キリンビールが好きらしい。海沿いの街まで行くと普通に手に入るそうだ。ロシアに行きたいという話、尖閣諸島の話、安倍首相、ドナルドトランプ、バーニーサンダース、金持ちの知り合いの娘がとんでもなく嫌な奴だという話、そんなものかな。途中からそいつの友達のサウジアラビア人がやってきてこれまた背が高い。メガネの度が強すぎてレンズの奥側だけ顔の輪郭が大きくへこんでいるように見える。建築専攻。アートの要素をもっと入れたいらしい。大きいウィンドウズのPCと喫茶店に持って来るにはデカすぎる電源プラグをぶら下げてコンセントを探している。

 

書くの疲れたのでここまで。読み直すのも面倒なのでこのままで。乱文

 

 

 

 

#068

ヘッドフォン。音量をあげると、自分の体の音が聞こえなくなる。足が地面につく音、骨が軋む音、服がこすれる音。うるさい音と視点だけ。

 

書くことが本当に出てこない。でも寂しさを紛らわしたい。

夕方。午後4時以降から7時くらいまでの時間は街が一番綺麗な色になるような気がする。彩度が徐々に上がってくるというかなんというか。少しだけのお金と本一冊を持って散歩をする。飽きたら適当なカフェに入る。タバコ。キャメルのターキッシュシルバー。温かい飲み物。黒いジャケット。古いジーンズ。擦り傷だらけの革の靴。黒いメガネ。黒いピアス。黒い髪。音楽。ジャズ。少しだけロックンロール。

鋳造したての硬貨みたいに綺麗な顔をした女の人がこちらを見て話す。表情の変化が気味が悪いくらいなめらかでおかしい。黙って聞いている。ただ聞いている。死ぬまでの時間を気持ちのいいあれこれで埋めているというよりは、それらが僕と僕を含めた生活を連れて終わりの方へと連れていってくれている感じ。いつか終わりが来るならそれが今ではいけない理由がどこにある。僕の死はおそらく僕によって決められる。僕は死ぬことに囚われすぎている。生活の中にストレスやらネガティブな過去があるわけでもない。周りの人間は優しく親切で、街の景色を見るのも好きだ。それでも死。死だけが退屈させない。僕は自殺へと、自分自身をとてもゆっくりの速度で納得させようとしている。納得が満たされる前に死が訪れればそれでいい、僕の方が先なら僕から飛び込んでいくかもしれない。いつか体の中にいた能天気な神様を懐かしく思う。正しさはない。僕は確かに幸せだったかもしれない。

どこかへ行った帰りに遠くに摩天楼が見えて来る。帰ってくる瞬間。広いアパートに好きなものを適当に並べて、街へ出て好きな人たちと楽しい時間を過ごす。そんなことがすごく難しい。何一つ持っていない。

人を見下す自分は好きではない。それは正しくないといつも言い聞かせて僕が間違っているのだと思うようにする。思えればいい。そう思えれば楽だけれどなかなかそうはならない。首根っこ掴んで熱々の鍋の中にその汚ない顔をぶち込んでクソ退屈なことしか出てこない腐った脳みそをグツグツやってやろうかと思うほどどうしようもない人間は恐ろしい数いる。これは間違いだろうか。僕が幼稚で未熟だとして、相手は本当は素晴らしい人間なのだとして、そんなこと僕には関係ないじゃないか。例えば40年も50年も生きてきてそんなふうな話し方で内容で仕草で態度で言葉で動きで表情で服装で、もうどこかへ行ってくれ。死ねないなら見えなくなるまで遠くに行って二度と近付かないでほしいと思う。けれどこれは僕の間違いかもしれない。面白くない人間は大嫌いだし格好悪い人間はもっと嫌いだし頭が悪い人間はもっと嫌い。チーズバーガーにしてアフリカに送りつけてやりたい。なんちゃって。

 

何か嫌なことがあったとかじゃありません。いやほんとに

 

 

#067

喫茶店でクリスマスセールのチラシを広げているおじさんがなんとなく目に入ってチラッと横目で見ると広告の裏側にアサルトライフルらしきものが聖夜に半額で売り出されることが書いてあって思わず吹き出しそうになった。シニカルな組み合わせもここまでくると純度の高いジョークだ。

昼過ぎ。ライターを貸してくれと言われる。マリファナを吸いながら涼しい顔で道を闊歩できるのはここぐらいじゃないか。ジャケットに匂いがついてしまった。夜ご飯を食べにいく予定の知人は嫌な顔をするかもしれない。ヘミングウェイの「移動祝祭日」ももうすぐ読み終わる。少し寂しい。愛嬌のある脚色であふれた老人の回顧録と言った感じだった。しかしそれら生活の結論がショットガンで自らの頭を打ち抜くことだったと考えるとなんともやりきれなくなる。未だ稚拙な文章しか書けない。目的地はさっぱりわからないのに遠回りをしていると感じるのはなぜだろうか。

死を具体的にイメージできないとき自殺をおもうと友人はいう。楽しい死に方について考えている。クリスマスに流れるジャズアレンジの音楽や、夜も眩しい装飾が溢れる街並のように、心が軽くなるような死。真っ白い光の中へ沈んでいくような死。

生まれた場所から最も離れたところで、自分のことを誰も知らない土地で異邦人として長く暮らすのはいい意味で生活感がない。よく知る現実からとにかく離れて、よく知る人親しい人からもずっと離れて離れて、遠い国で暮らす。何も知らない土地を移動し続けることをやめない。そうしているうちにいなくなってしまえればいい。腰を落ち着けて家庭を築いて幸せに暮らすことは寝る前にちょっと考える。そんな風にならないことはこの僕が一番よく知っている。

#066

ハードボイルドと呼ぶには甘すぎる形容詞が並んだ文章を眺めているうちに日が沈み始めた。湿った枯葉の上を歩く老人が履くコンバースが妙に目を引いた。誰もいないカフェには、迷いのない和音から始まったメロディーが流れている。時代も場所もわからないところから来た音楽が僕の個人的な景色に不規則なニュアンスを与えている。若い男女が入って来た。今日は風が強い

街には全てがある。昼間に見えていた半月を思い出して、視野イコール現実という実感を乗り越えて太陽系、銀河系、全宇宙という存在の広がりまで現実の把握が染み渡った時、つまり存在全体を現実と呼ぶとき、世界のわからないところや宇宙の外側はすっきりと抜け落ちていく。そこに不安はない。

雨がリズミカルに打ち付ける窓から通りを歩く人たちを眺めていると、生活に流れる文法の気配を感じたりする。こもった文章。個人的な論理体系に徹しようとする文面から突然堰を切ったようにこぼれだす感情。

#065

壁に並んだ空き瓶を眺めている。確かに僕は今に生きているのにまるで過去を見ているような気持ちでそれらを見ている。まだ過去になっていない現在を、失った優しい生活が目の前にあるかのように見ている。現在の形式が追憶に変わるそのつなぎ目に僕は生きているそんな気がする。過去になるギリギリの瞬間に、手放すのを惜しむように眼前の風景を捉えている。過去はどこにも無い。現在にある過去の痕跡に僕たちはノスタルジアを感じる。

#064

長い時間をかけて穴の形を正確に描き出したからと言って、それは穴を埋めることとはまったく関係がなかったのだ。緻密に解析して小さな凹凸も見逃さずその穴を捉えても、そこに穴があることは変わらず、それを埋められない自分は何も変わっていない。絶望の形をじっくりと具体的にすることは確かにこれまで僕を慰めてはいたけれど、絶望があることに変わりはなく、それを癒す術などないことに変わりはない。僕は同じところを、回数を重ねるごとに自分を傷つけるためのナイフを鋭く研いでいる。次はもっと正確に自分を痛めつけることができる。次はもっとはっきりと穴の大きさを、絶望の形を捉えることができる。しかし物事は何も変わっていないのだ。絶望の形をなぞって正確にとらえようとする過程の中でしか一致感を覚えることはできず、生活の圧を感じることはできず、不安を忘れることはできない。常に苦しんでいないとそれは僕が本当のこととは関わってないような気持ちになって、生きていることの、世界の、目の前に広がるなにものかを捉えられない自分を正確に描写している時だけが、不可能な自分を毎秒自らに思い知らせている時だけ、僕は安心している。

 

人を殴ったり痛めつけたりセックスをしたり耐えられないほどの空腹になったり飯を食ったり銃口を突きつけられたり頬骨をおったり、首に縄をかけられたり、砂漠で跪いたり、くらい街角で背中にナイフが刺さったりしないと、納得はやってこない。一致はこない。 

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