DIARY

パラダイス銀河

#037

考えるべきことは何か考えているうちに考えられなくなって、自分の人生は手のひらからこぼれ落ちて僕とは関係なく進んでいく。喜怒哀楽も、義務感で無理やり焚き起こしている感じがあるし、笑うべきところで笑って、泣くべきところで泣くという訓練をどこかで積むべきだったと気づいた頃には取り返しのつかないところまで来ている。

著名人達のの「生涯」という項目をウィキペディアで調べて、人生のいろんなパターンを見ている。文に起こして見るとなんとも矮小でつまらなくなってしまうなと思う。数え切れないほどのパターンがそれぞれの人生にはあって、各々はそれを自然に受け入れる。人生はこういうものだ、というがそれぞれにある。僕がこの人生の中で密に知り合う人間なんてせいぜい10人程度だろうと思うけれど、密に知り得ないパターンがなん億通りもあること、1000マイルも東に移動すれば全く違ったイデオロギーが浸透していること。完全な球体のような論理は不可能で、全ての大きさを一般化する式も存在できない。何も正しくないというよりは、正しさなどなく、真実などなく、ただ起こって、それには視点があるということ。視点はカラフルで歪だけれど、そこにも優劣はなく、ただ差異だけがある。これはこうだ、ではなく、私にとってはそう見える、といってほしい。そうなるとアカデミアは存在できないし社会も不可能だろうけれど。今となっては僕には関係ない。

僕はとてつもなく自由だと今日は感じた。僕は演じることができる。演じていることを了解さえすれば、僕は何にだってなれる。明日は軽い男になって、綺麗な女の人に声でもかけよう。その日のうちにセックスまでする。その次の日には勇敢な男を演じて、その次の日は知的な紳士を演じよう。その次は独特な感性を持っている風の芸術家を演じて、その次はスノッブ、その次は育ちのいい青年。僕は何にだってなれる。これは世界の秘密。

この瞬間にだけ溺れていく。陶酔を目指す。夢の中で生きる。肌の感触、死のリアル。眠らない街で僕は夢を見る。

 

#036

マリファナで少しハイになっているので書ける。書けるぞ。音楽はジョニーグルフィンのOlive Refractionsを大音量でかけている。音楽を聴いていても楽器一つ一つが独立して聞こえてきたり、ただのハンバーガーがめちゃうまく感じたり、セックスが異常に気持ち良かったりと、なかなか。あ、ジョンコルトレーンのMoment’s Noticeに曲が変わった。出だしがいい。モードジャズの真骨頂とはこのこと。疾走感がいいですね。ロスのジャンクションを運転している時コルトレーンをかけていると直線が多いのでリミットをすぐ超えてしまう。

ぼくはいつでも死ねるのに生きているね。全てが言葉だとなって何もかも宙に浮いてそれもどうでもよくなっているので、意外とすんなり未来やりたいことなど考えられている。貨物列車の音が聞こえてきた。来年からはまたニューヨークに移ります。今からアパート探さないと、昔住んでたお気に入りのところがブルックリンの少し北にあるんだけど改装工事中らしいので諦めた。リトルイタリーの近くに激安で一つ空いてたけど胡散臭すぎてやめた。つき1200ドルとはちと高いがまあ相場があれなので仕方ない。そういえばマリファナはカリフォルニア以外ではまだまだ違法な州があるので気をつけて。

 
来月末から仕事でまたロンドンへいきます。ロンドンの皆さんはよろしく。サンクスギビングの前にはパリにもどります。アメリカに帰るのは年が明けてからですね。今年の末は帰れないので東京の皆さんは来年夏にお会いしましょう。それではぼくは映画を見てきます。

#034

本来進めるべき作業から逃げてキーボードをはじいている。そのうちにうまい言い訳が浮かぶのを期待するけれど、何もかもをやめることの正当な理由はいつまでたってもやってこない。

8月31日を過ぎても終わらない宿題を抱えたまま学校へいくことになった。僕はこのまま落ちぶれていけるだろうか。だらしのない生活を潔く受け入れられるだろうか。何も決断せず、欲を抱えたまま可能性の幻想に呑まれて終わるのだろう。

これで生きていくと決めた瞬間に僕はこんなもののために生きているのではないと思い、甘んじて受け入れた瞬間に時間をドブに捨てている気分になって手を止める。ここでもあそこでも、人生は始まらない。

強烈な快楽と高揚感をリズムよく生活に組み込むにはどうすればいいか。セックスとアルコール。それからお金。広い部屋と、好みのもの。車とジャズ。あとうるさくない文学。

 

僕の仕事は色々で、ファッション誌に雇われて人間の写真をとったり、ロゴやシャツ、雑誌のグラフィックデザインなんかもやる。最近は喫茶店のインテリアを考える仕事もあった。短い映像も作る。それはプロモーションビデオだったり、コマーシャルだったりする。あと毎週金曜日と土曜の夜は、坂の途中にある店でジャズを歌う。これはとにかく払いがよくないのだけれど、本当はこれだけで食べて生きたいという気持ちがある。それから舞台演出の手伝い、あと脚本も少し。絵を描いたり、物を壊したり、そのまま置いたり、いわゆるファインアートと呼ばれる分野でやっていくのは難しい。大学時代に書いた絵がいくつか売れたことに気を良くして絵描きで食っていこうとしたら死ぬほど貧乏になった(奇抜な芸術は退屈で、ぞっとするくらいに正直な作品だけが面白いのかもしれない。必要に駆られて作り上げたという雰囲気があるものと、ないもの)わけのわからない類の音楽のコンポーズもやったりする。

北米とヨーロッパに住んで、中南米も、アジアも、アフリカにも行った。しかしどこへ行っても何をしても、18歳まで体に刷り込まれ続けた虚無感が消えることはなかった。生きることに対する手応えのなさは、拍手をもらっても、綺麗な人とセックスをしてもどこかへ行ったりしない。壮大な景色を見ても美味しいものを食べてもお酒に気持ちよくなってもそれらは何も関係しないように思えて、何一つ納得させてはくれない。豊かさは虚しさの処方箋にはならない。

まだ生きているのでこのまま死ぬまでは生き続けるのだけれど、いよいよ何をすればいいのかわからい。食べて寝て、死ぬ。これから色々あるのだろうけれど、とにかく僕は死ぬ。それでもこれから色々とある。わけがわからない。何一つ理解できない。全てがわからない。ただ実際に起きていることを錯覚し続けているような気がして、誤解を続けているような実感だけがあって、苦しい。

 

#033

「ねえ、だから言ったでしょう。」

「いけると思ったんだよ今度こそは。」

「毎回言ってるでしょ、時間の無駄だって。」

「五階だとダメなのかな。」

「高さの問題じゃないのよ、あなたは三十階から落っこちても死んだりしないわ。三階以降は死に対して漸近するだけよ、それは決してあなたを死に至らせない。」

「なら僕はどうすればいいのさ。これだけ死にたくて頑張って生きているのに、これだと生きている意味がないじゃないか。」

「グダグダいうのはやめてよ、それを探すための人生でしょう?」

「こうまでして死ぬ必要があるのかなあ、生きる意味が分からなくなってきたよ。」

「子供みたいなこと今更言わないで。私たちもう二十二よ。フラフラしてもいい時期はとっくに過ぎてる。」

「言われなくてもわかってるさ。明日はガスを試してみるつもりだよ。最近読んだ小説にあったんだ。主人公の親友が冒頭で、車を密閉してエンジンを炊くんだよ。排気口に付けたホースを車内に繋げて一酸化炭素中毒を起こそうって魂胆さ。」

「最近の車って排気ガスまでクリーンなんじゃない?それだけ手の込んだやり方でうまくいかなったらそれこそ目も当てられないわよ。」

「分からないだろ、やってみないと。とにかく明日はそれでいくから。」

「そう。わかった。私は明日忙しくて一緒にいられないけど、まあ頑張ってね。もし早く終わったら連絡する。」

 

 

#032

僕が狂わないのは、狂ってしまえないのは、夜寝て朝起きるから。今日と昨日が繋がっていないから。狂った夜のぼくは次の日また繰り返すまで、始まらない。リズムに飼いならされた僕の狂気は、幻想のまま終わる。全てのしがらみと嘘っぱちを引き剥がして、残酷なまでの自由、通りで男を殺して、街で女を犯している。僕の現在とはすなわち今日のことで、朝起きてから寝るまでで、そこに過去と未来はない。今より5分前も現在で、5分後も現在だ。起きる前は過去で、寝た後は未来。

 

素朴な存在はたまに顔を出すぐらいで、生々しい景色に僕は住んでいない。

あらかじめ失われた自由はたまに顔を出すぐらいで、生々しい自由を僕は生きていない。

なぜ僕は全て投げ出せない。全てに正直なってしまえない。つまらない。

僕の自然な僕が、狂気を始める。今日始まる。今から現在の過去は現在、現在の未来は現在。僕はどこでも生きている。キャンバスにぶちまけた絵の具。紫の塊。

 

僕の存在はずっと昔から、大昔からはじまっているのに、僕は最近生まれ落ちた。あらかじめ失われた自由は子宮の中にもない。

人間などどうでもいい。社会はわからない。遠くから見て複雑なものなどなんの意味もなく、近くで見ればのっぺりとした物質が広がるだけ。僕はそれより小さい。

綺麗な姿がドロドロとなっている。ほとんど同じセリフを繰り返すバカが周りにはゴマンといる。僕は嘘ばかりついている。僕は本当のことを知らないから、嘘ばかりついている。嘘も正しくはない。

同じような音が周りに溢れて、見たくもない血色の悪い顔が相変わらずそこら中にあるのに、昨日の僕は今日の僕とほとんど変わらないのに、僕の狂気は昨日で終わって、今日始まって、終わって、明日始まる。

 

人間は同じことしかしない。人間は同じ言葉しか言わない。人間は笑って、怒って、悲しむ。

 

僕はまた今日から始めようとして、夜に狂って終わる。僕は死なない。僕の生活はいつまでも続いて、僕の狂気はいつか日常に染み渡る。僕は今日始める。今日始める。 

 

 

 

 

 

 

 

#031

夜歩いてコンビニまで行く途中、僕の生活はこの先にある何か理想の生活や、そこにいる自分というのを目指しているということと、今現在しかありえないということを。変えるのは今この瞬間で、操作できるのも目の前の現実だけしかない。小学生の日記みたいな文章になったし、この後もそう。

無意味だということは全くしっくりこない。僕は人生やこの世界を無意味だとはいえない。この世界はあって、そこに僕はいる。僕は言葉を使ってものを考えて、あらゆる出来事を解釈する。

俳優に、なぜ君は役者をやっているのかと聞くと、演技が好きだからだという。誰も、生活の手段だとか、金を稼ぐためだとは言わない。職業には色々なものがあるけれど、実際に世界を動かしていると明らかにわかるような類の仕事は退屈で、そこにはなんら神秘性はなく、同じ動作を繰り返し、システムの一因となって対価をまさしく得るためだけに存在することになる。

しかしそれぞれに生活があって、コミュニティがある。ベルトコンベアから運ばれてくる歯磨き粉のチューブにキャップを付ける作業を8時間毎日25年繰り返す人にも、少しだけのランダム性が人生には残されている。それはその状況から抜け出せられる自由と、顧みずに沈んで行くという自由、甲乙はここにはなく、ただ駒をどう打つか、個人の自由だけがある。仕事帰りにお酒を飲む、家でテレビを見る、家族の世話をする、少しの恋もする。社会には色々な人間がいてそれぞれ生活のレベルというものがあるけれど、このあたりはだいたい変わらないと最近肌で感じる。

職業に神秘的な何かを求めて創造を行うとする人も、それはどこまでも平凡な人間の然るべき姿であって深遠な意味だとか、内的な奥行きだとか、そういうのは関係ない。

書きたいことからどんどん脱線して言っているうちに出発すべき場所を見逃した。

 

僕が書きたかったことは、深夜コンビニに向かう途中で僕が考えていたことなのだけれど、はっきり思い出せない。理想を作るための土台にしようとする今の生活、しかし現瞬間でしかそれはありえないということ、そして今の段階でそれは満たされうるかもしれないし、そういう手段を僕は永遠に今この瞬間には手に入れられないかもしれないということ。なんか違うな。先のことを考えて、いまを計画するのがほとんどの人間で僕もそうなのだけれど、それだと僕の生活やあるべき姿はずっと先にあって、これだとアキレスと亀のごとく永遠に追いつかない。理想の生活を追い求めて、自分を追いかけてしているうちに、一度もこの瞬間を生きているという感覚がなく終わってしまう、そんな気がしたのだ。

 

働いてお金をもらわないと暮らせない。優雅な生活が最高の復讐であるなどというけれど、優雅に見える生活も、その精神性も、実際はもっとジメジメして現実的で、内面は説得力のある虚無感に苛まれている。

 

あらゆる種類の人間がいる。もちろんそこに僕が優劣を付ける権利などない。しかしものを考えたことがないように見える人間はだいたい何も考えておらず、そのほとんどがなんの面白みもない連中なのだと同居人に言われた時、その通りかもしれないと確かに思った。話が合わないから、とかそういうことではなく、本当にそういう類の人はいる。ほとんどがそうだと思う。偏見であり先入観だけれど同時にこれは、確かな実感でもある。四半世紀近くしか生きてきてはいないけれど、面白いと思った人間など一人もあったことはないし、尊敬できるような人物にも遭遇したことがない。異性は性的な対象にもなりうるから、そういう面で単純に興味を持つことはあるけれど、同性に関してはほとんどない。ほとんどはつまらない人間で、それはいい大学に入っているとか、大企業に勤めているとか、ミュージシャンをやっているとかには関係がない。神秘的な生活を送る人間だってことごとく退屈だったし、自堕落な人も、芸術的と言われる人も、会社を経営する人間だって全然つまらなかった。地元にいる友人も、家族も、僕とは全く違う。全く違う。この前、サンフランシスコのピザ屋に連れて言ってもらって、その人はいわゆるハイスペックで、ハーバードの院卒、コンサル、起業みたいなベタベタな感じなんだけれど、僕は途中で何度席を立って帰ろうと思ったかわからない。あれなら家で折り紙でもしてた方がいくらかマシだろう。話が面白い人間になどあったことがないし、共感したこともほとんどなければ、もっと知りたいと感じた相手など、綺麗な顔をした数人の女性をのぞいて会ったことなどない。だから孤独なのだとか言うつもりはないけれど、何かに取り組んでいる、取り組んでいられる、口を大きく開けて笑うことのできる人を全く理解できないし、しかし僕も同じように見えるのだろうと思う。だから彼らにも何か絶望的な悟りみたいなのが根底にも会って、実は時間をかけて付き合ってみれば面白いのだろうみたいな主張もあるけれどそんなことは僕にとってはどうでもよくて、僕は周りの人間を見た目と言動で判断してそのほとんどをつまらないと思うし、こいつは死んでもいいバカだとほとんどの人にたいして思っているし、かと思えば人間全部が愛おしくなったりもする。

 

職業は神秘的ではない。音楽も、演劇も、あらゆる芸術も、これぽっちも神秘的ではない。僕はだからこのどれかに関わってお金をもらいたい。できればそれを操作できる立場で。自慰行為を世間にばらまくだけで、生活に必要なお金と、さらに贅沢と社会的な扱いもよくなる可能性があるからだ。美術館に飾られている絵画はそこに飾られることでありがたみを演出しているけれど、その人間にとっての独白であって、僕には何も関係はない。それを通して僕は何かこの世の神秘的な様相を思い浮かべたりはしないし、その人の過去から何かを推測することもできない。それは退屈で、煙草を吸って酒を飲んでセックスをしている方が数倍納得した瞬間だと言える。神秘的なものがあり得るならそれはこの繰り返しているように見える平凡の数々、その中でしかありえないと思う。矛盾しているけど、まあ、そう言う感じ。

 

世界には構造もなければ法則もないけれど、それらを作り出す視点がある。しかしだからと言ってこの場所が全くのフラットというわけではない。そこには確かに何かがあり、その原因はほとんど無限後退的に遠くに行ってしまうのだけれど、僕個人、もしくは人間、その人間が司る論理体系、納得、傾向からの見え方としては、ただ在るなどということを腑に落とすことは、ほとんど不可能だ。

 

 一人になる時間は必要で、家族といる時や友人といる時の僕は普段のそれとは全く違う。多重人格を疑われても仕方がないくらいに、それは違う。一人一人で僕の姿は変わる。何通りもの自分がそこにはいる。その人と僕だけの世界、というものが人の数だけある。これは当たり前だ。一人になる時でしか、それぞれに感想することができない。まとめて、パッケージ化してしまわないと散らばったままな感じがしてなんとなく気が休まらない。

 

 体が震えたり、魂を揺さぶられる、と言う経験。それはグランドキャニオンを見たときとか、ホームレスを見たときとか、ディスプレイとにらめっこする満員電車の乗客を見たときとか、ビルのてっぺんから落ちそうになったときとか、すごく綺麗な人に会ったときとか、音楽だとか、映画だとか、色とか、音とか、感触だとか、言葉だとか。それは生活のあちこちに散らばっている。ある種のパターンが、脳みそをめちゃくちゃに刺激する。しかしそれはすぐに終わる