DIARY

パラダイス銀河

#024 Polka Dots and Moonbeams

Suddenly it's crossing in his presence, but it's gone as if naturally provided the fate toward disappearing. She could've understood if it was coming from somewhere she's familier with. Yes. Phenomena's flexibility counts on her interpretation without a doubt.  

 "It's really disappointing, I thought you'd be helping me "

Nobody ever put me on the spot like this before, except for this slanted-eyes lady. But I've had to tell her about it anyway since it may be the truth which mankind ought to know eventually. 

"Yes, you're right. Nothing was obvious at the time probably. Yet now, we're done solving every secrets out there,, just by human's perspective...and guess nothing wrong with being decomposed with an arbitrary aspect"

 She'd been shutting the small lips tightly and puts the 30 bucks on the old wooden table. She looked at my face, "You can't look at me like that." 

After she left, there's nobody in the cafe. All what I could hear was an ennui melody of Wes Montgomary's guitar coming from an old jukebox. 

 

 

 

 

#023

ロサンゼルスの空港はいつも混む。朝からだらだらしてしまって、ぎりぎりに家をでた。毎度同じ。僕は何をするにも初動が異常に遅い。生活に対する能動性が弱いのは、なんとなく今まで繋がっている習慣がよくないからだと思う。

国際線乗り場まで距離があるから少し急いで向かう。サクラメント空港から日本までの直通便はあったのだけれど、ギリギリのタイミングで予約したので値段が思ったより跳ねていた。バンクーバー経由で成田着。搭乗手続きはとっくに始まっていた。

 機内食はトナカイのソーセージと相変わらずのビーンズ。それから硬いプリン。飲み物のカートを引き連れたお姉さんが笑顔でやってくる度にトマトジュースを頼んでいると隣の人に、ウォッカとレモンを混ぜればブラッディメアリーなるカクテルが作れると教わって、飲んでみると美味しい。着陸2時間前だけれど少し酔った。

 

 

朝の東京。三ツ矢サイダーの空き缶が足元に転がっている。

ホームで横たわるサラリーマン、叫びながらおぼつかない足で通りを歩く女。じっとして動かないボサボサの髪の男。てきぱきと動くコンビニ店員。数時間前まで深夜の公園で虫を集める街灯さながら人間をかき集めていただろう色とりどりのネオンたちも、今では濁った透明に甘んじている。

出勤時間になると、駅は喧騒に飲まれて再び活気が戻る。それでも今は鳥のさえずりなんかが聞こえている。空は晴れてもいないけれど、曇ってもいない。1:5くらいの割合で青と白を混ぜたアクリル絵の具みたいに薄い。はっきりしない光が街に落ちている。ガードレールに足をかけて、解けた靴紐を結ぶ。

 

テクノロジーは無機質だろうか。電脳もあらかじめ装置に組み込まれた人間の意図の末端である限り、そこから人間性は臭ってくる。極彩色に輝くネオンと、塊でやってくる音は、全て人間が出している。僕は個人ではなくなり、あらゆる独立は虚しくなって、それぞれにとっての生活は拡大鏡で街に投影される。広告塔からこちらに向けられている微笑みと、目の前をすぎていく無数の表情。街路樹はプログラムされた通りに葉を揺らしている。

 

都市の多様性が人間の欲を細かく砕いて小さくし、その一つ一つを丁寧に満たしている。僕たちはもはやダーウィンが知っているのと同じ人間ではない。

自動化されていく都市にすんでいる。夜の2時でもまだまだ賑やかで、これから何をすることだってできる。自分の欲を外出前に整理して小分けにしてリュックに詰めて、それぞれを満たしてくれる場所をインターネットで検索して、マップを出して向かう。1日は終わる。自動的に用意されたグリーンカレー。耳からは音楽が流れてきて、ディスプレイには小さな世界がいくつも待ち構えている。僕はこの時代に生きる。

 

古い自動販売機でビタミン飲料を買った。それからパン屋でタマゴサンドを買う。古本屋で本を漁る。おばちゃんがやってる小さなタバコ屋でラッキーストライクを買う。いつもの喫茶店で友達と話す。

死後の世界なんてあって欲しくもないけれど、この現実よりも豊かなものがどこかで待ってるなんて思えない。慣れ親しんだ物質の広がりだけが、衝突を繰り返す小さな欲を埋めていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#022

6月になって一週間が経った。

暑くなったり寒くなったり。ブラインダーを開けると朝っぱらから芝刈り機を動かしている男が見えた。うるさい。

 

大学の健康診断に行った。179センチ。伸びていた。最後に測ったのは高校生の時くらいで、確か175とかだった気がする。体重も結構増えて、69キロだった。体脂肪率は8パーセント。抑うつの気が激しくなると気が狂ったよう動かしていた僕の体はいつのまにか、和製タイラーダーデンみたいな体になっていた。抗うつ剤を飲んでさらに不安定になる自分に嫌気がさしたと言うか、とうとうバカバカしくなったのは確か2年ほど前で、その時から気休めは全部やめて、心の低迷も所詮は生理現象の一部なのだと言い聞かせて筋断裂で体が動かなくなるまでほとんど毎日、寮の地下にあるジムで過ごした。一時帰国した時友人が僕を見て、体の大きなアメリカ人達に触発されて僕が肉体改造を試みたのだと思ったらしい。母親も「健全な精神は健全な肉体に宿るって言うもんね」なんて呑気に笑っていた。

どうでもいいけれど、ユウェナリスの風刺詩集に出てくるこの言葉、”orandum est, ut sit mens sana in corpore sano”は肉体が健康なら精神も自ずと健康になるなんて意味ではなく 

”It is to be prayed that the mind be sound in a sound body”彼自身のコンテクストも歴史的背景から意図される文脈も無視して強引に訳すならば、健全な肉体に健全な精神が願われるべき、ぐらいのものではないか。健全な精神が健全な肉体に宿ればいいな、みたいな感じだ。僕の体は過去ないほどに健康的で、活力に満ちている。しかしそれは、僕の生活が本質的な解決とは完全に逆行していた結果だ。頑健になっていく体はむしろ僕が自分自身の問いに押しつぶされて打開できなかった証明ですらある。精神的な葛藤は抽象的なものだと思っていたけれど、それは分解すればとことん具体的なのだ。

どの瞬間も腑に落ちていない。納得して生活を運べない。要するに落ち着かない。どこにいても何をしていても、なぜ自分がこんなことをしているのか、自分がなんなのか、全ての不一致が景色の隅々からやってきて、やがて全部わからなくなる。最近は本も読まないし、真っ向から問題に立ち向かうような気持ちも出てこない。僕はただなんとなく居心地が悪いこの存在の中を、その不快感を横目で常に捉えながら生活している。諦めたと言う感じではなく、手の内どころがないように見える一つの肥溜めの中で腰を落ち着けて居場所を見つけたような錯覚に陥ってるのが、今の僕なのだと思う。まったく、残念。

 

 

 

#021

誰かが「あなたは結局何がやりたいの」なんて聞くから僕はつい口を滑らせて、思っていることをちょっとだけ話してしまった。みんなの表情がみるみる変わっていくのを確認して、本当に思っていることなんて人に話すものじゃない、同じ轍は2度とは踏むまいと固く誓った。

 

今日と同じようなことを口を滑らせて話してしまったことが過去にもある。正月に親戚の集まりで料亭に来ていた僕は、大きなフグの身をたっぷりの梅肉につけながら、思っていることをなんとなく話した。

「お前が若いからだというつもりはないけれど、そんな甘い観念論と浪漫的な形而上学で全てを腑に落とせるほど現実は優しくない場合がある。」その時はバッサリと叔父に言われてしまった。歯に衣着せぬ物言いもいいところだ、大人気ないななんて多分僕は思っていただろう。しかし坊主頭で幅の大きな二重まぶた、身長も180はゆうに超える日本人離れした見た目の叔父には威圧感があって、突っ掛かれば間違いなく反撃を食らうだろうという感じだったので僕は歯向かうこともなく、黙ってフグを食べ続けた。まだ高校1年生だった僕は何か言い返したかったはずだろうけれど、何かしたという記憶はない。

 

「涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない」などといかにも狙いにいった言葉を残したゲーテの顔、よく見るあの肖像画が頭に浮かぶ。涙とともにフグを食べても人生の味なんてわからない。本心はやっぱり隠し通すべきなんだということだけは、16の僕でもわかっていた。もちろん、これがありがちな保身術なのだということは言うまでもない。

#020

もろもろの哲学は、いずれどこか遠くへ行ってしまう。

おだやかな絶望を見ている間だけ、生活にむしろ意味は宿る。

 

ホームレスバンドが地下鉄で演奏しているのはマイルスデイビスの"Four"という曲だった。僕はイヤホンを外してしばらく耳を傾けた。濁った和音と独特のシンコペーション。心臓の拍動と共鳴するなんてありえないのだけど、やっぱり楽しくなってきてしまう。気分が良くなりかけた頃に電車は到着した。

等間隔で設置された地下鉄のあかりが目の前をほとんど線になりながら流れていく。移動という行為には目的地が伴うのだけれど、目的地に目的が伴わないことや、目的の目的が失われて見える場合が、良くある。というか全部そうなのだ。月火水木金土日と滑っていく毎日の中で突然それはやってくるといつかのフランス人は言う。

ふと、舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土日、――こういう道を、たいていのときはすらすらと辿っている。ところがある日、≪なぜ≫という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてがはじまる

物理的な僕に宿る物理的な精神。僕は決して10代の頃に抱いた’なぜ’を克服できてなどいない。それらは悪趣味なカタチで、忘れた頃にやってくる。生活の隙間、場所へと向かう時間の中。説得力を持たない虚無感が景色の表面に覆いかぶさって、思考は限界まで分解されて床に並べられ、それぞれに根拠が掲げられた後、その根拠には根拠などないことを知らされる。それは感覚的なものではなく、むしろ論理的なもののはずなのに、論理的なものはどこまでも僕の感情なのだということ、正しさはありえないこと、そう言い出すことも言葉のせいだということ、そういう気持ちがパッケージ化されて一瞬でやってくる。僕は忘れてなんていない。ずっと流れているどうしようもなさは、僕の中で流れている限りどうしようもなさですらない。正しさはやってこない、意味も、充足も。わからないまま終わるなら問うことをやめようと言い切る潔さをどこかで覚え損ねた僕は、意味などなければやってくる価値のすべても全くの絵空事だということを確信しながら、それらを血眼で追いかけている。プログラムされた基本的な欲が突き動かすこの体。この体自身がそれら欲の動機を打ち消し続けているにもかかわらず、やはり僕は止まれないでいる。自殺する意志もなければ人間的な手段で答えを出す気にもなれない、信条がある訳でもない。ただ最も基本的な欲が僕自身の文脈を伝って生活の中を暴れて、もうほとんど僕を食い殺している。

 

"論理的"に無限後退を続ける僕の問い。その論理はやはりあらゆる意味で感情的なのだという解釈のせいで、分解され尽くしてそのあと論理的だと自らに言い聞かせて得ることのできる矮小な納得感すら手放してしまう。ただ一つの見え方、解釈にすぎないというところに全ての問いは吸い込まれる。この大きな諦め、一つのピリオドであるはずの場所も、その”論理”によって自壊を繰り返している。僕はまた「それも感情だ」というラベルを馴れた手つきで貼り付ける。絶対的な第三者がいればそれは解決するように思えるだろうがそんなものは今のところいないし、仮にこれから現れてもそれはまた僕の解釈に依ってしまうこととなる。そのモノが絶対的な否かにかかわらず僕を納得させる、さらに第三者的な存在が出てこないといけない。となるとさらに無限に後退して、結局は純度100%の納得も正しさもなく、それらは1か0かという次元ではなくただそこにあるだけということなる。僕という視点があって初めてすべては判断を受ける次元まで降りてくることになり、僕の視点は、生物学的に人間が持つ傾向性と、個人的な歴史によって形造られた解釈の論理構造から成っている。それらに触れて初めてあらゆる物事は、正しさのフィルターにかけられる。真理などこの世にないということではなく、真理が存在しないはずの世界(そう思うこともまた僕という1人称から外で保証はされていないけれども)を、真理という概念をもつ個体を通して見てしまっていることで、それは歪んだり、整頓されたりする。僕にとっての是非から逃れられない時点で論理的もヘッタクレもない。それは拡大され、人間という種単位でも言えるかもしれない。人間にとっての見え方の中での整合性に準じて僕たちは真理だの論理だのと仄めかしているけれど、本来それが示唆するべき最もピュアなカタチでの物理的な真実は、僕たちから遠いところにあるどころか、ほとんど幻想かもしれないという危うい地盤の上でしか存在を許されず、永遠に答えにたどり着かない平行線の中で冷え切っている。

 

意味も価値も正しさも幻想に過ぎない、しかしこれらの言葉が捉えるある種の気配は、僕が人間だから感じるのかそれとも本当に何かの片鱗に触れているのか。どっちにしろわからない。

 

ふー ちょっとすっきりした 

 

 

 

 

#019

音楽が耳障りで仕方がないけれど、体に力が入らないのは僕だけじゃないらしく誰も止めようとしない。流れるように過ぎていく街の景色が時間に追いつかず、抽象へと引きずられていくのを窓にもたれ掛かりながら眺めている。僕は夢を見ているのだ。

 

 

ブルックリンブリッジを歩いて渡る。川の向こうに浮かぶ摩天楼を見るたびに僕が存在していること、人間がどういうものなのかわからなくなって、それはなぜだか宇宙の大きさとかにまで繋がってしまって、行き場を失った疑問符を連れたまま僕は、雑踏の中に呑み込まれる。

雨だってお構い無しに、傘もささずに待ち合わせの場所へ向かう。メトロに向かう途中、地元紙を2ドルで買う。店主のタバコの銘柄が土曜日だけ違うのはなぜなのかずっと気になっているのだけれど、ずっと聞けずにいる。相変わらず無愛想だ。通りの角からマリファナとインド料理の匂いが混ざってやってくるいつもの交差点。僕は人を待っている。雨を吸った新聞紙が少し重い。

 

ごった返す人混みの中から急に現れたその人は、髪をバッサリ切っていた。前会ったのは半年も前なのだ。人はすぐに変わってしまう。例えば過去を振り返る時、そこにある文脈や細かい表情までは思い出さない。断片的なシーンを今の僕が好き勝手に取り出しては、色付きのプロジェクターで流すのだ。

チャイナタウンにあるミルクバーなるものに誘われて、僕たちはそこで1時間ほど話した。フライトまではまだ少し時間があるらしい。彼女はこれから、ずっと遠いところに行く。これが一生で最後の会話かもしれないのに、隣の客がフライドポテトにケチャップをかけすぎていることとか、この前見つけた調味料店のピンクソルトがバーゲンで安くなっていたこととか、どうでもいいことばかりを話していた。お互い話の着地点を探しているのだ。さよならを切り出すのは僕からでいい。恋心とかそういうものではなくて、ただ、その人間のまとう空気感というものはいつのまにか僕の生活にも侵食している。それはその人と会うたびに上塗りされて一定なのだけれど、彼女が持つ雰囲気も、これからはどんどん薄くなって、最後にはほとんどわからないほどになってしまう。僕の中にいる誰かとの記憶は、僕自身の写し鏡にしかなれず、裏切りのないつまらないシーンだけが積み重なっていく。

JFK空港まで送った帰り道、やんでいた雨がまた振り始める。今頃傘を持ってきていないことを後悔した。ビルの隙間から見える曇り空は動いていない。僕は一人になった。いつも通り。生活が僕の理由で、関わりは僕の人生となって行く。共有された瞬間だけ、記憶の中で彩りを保っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#018

 

一人の人間が死ぬ時、近い人間が死ぬ時、その人の表情やそこを覆う景色を 

例えばその人がこぼした一字一句も全部、忘れないように書き留めたりする。僕はその人の痕跡を残そうとしている。

 

口角がだんだんと下がっていくのを見ている。目尻が細くなって、表情は崩れてくる。悲しみは筋肉へと伝わる。細くなってほとんど動かないその体から、言葉をなんとか絞り出そうとしている。その人の声を僕はなん度も頭の中で繰り返す。忘れないように、そのシーンを擦り込むように。

 

 

こちらを見ているのがわかったけれど、僕は気付かないふりをして本を読む。

本に並んでいる記号の羅列は説得力を失い、それらが諭すこの世界のことはほとんど関係のないことになってしまう。目の前で実現されていく死だけがいま僕を捉えている。何層にも重なって展開する現実も、何気ない生活も、それらは振り返って初めて見える生と死の接合部であって、この人にそれらはもう関係ない。

生々しいほどの現実は、例外なくその体を捕まえようとしている。何故生きているのか、何故在るのかという疑問は、言葉ではなくて視覚的にそこに横たわっているようだったけれど、それは僕にとってそう映っているだけかもしくは、ただ僕はそう見る傾向をもつ主観なのだということ。

 

 

何かがそこにはある。あるということを、確かにそれを感じている。ベッドの上には重さがって、それを所持している何かがある。静かに目をつむるその人は、もっと早く、もっと大きく動いていたりしていた。喉を震わせて声を出し、関節を動かして歩を進め、笑ったり泣いたり、怒ったりしていた。

 

その人の歴史と僕の歴史がかあさなりあっていた時間が、途切れ途切れになって頭をよぎる。記憶は確かに現実で、瞬間が永遠に続くように僕はたわむれていた。

 

 

心電図の波は緩やかになって、しばらくして電子音が静寂を破る。

硬くなって動かない。僕はこれをよく知っている。ながく時間を駆け抜けていた肉体は空っぽになって、その人は不在で、僕はこの形が好きだったわけではないのだということを知る。全てを思い出そうとするけれど、断片的なイメージだけが冷たい手のひらの感触からやってくる。

 

生は一瞬で、死はその一部として、どこかで待っている。あらゆる表現はどんどん遠ざかって、ここに生きているという感触だけが僕を貫いている。どこから来てどこへゆくのか僕たちは知らない。その人の痕跡が消え去ったあと、とりとめもない時間が全く違う在り方で、今は僕だけが立っているこの部屋を飾っている。