DIARY

パラダイス銀河

#016

いつの間にか考えることをやめる。やり尽くしたという感じではなくて、見失ったといったほうがいいし、初めから真っ当に考えられることなど無かったというべきかもしれない。とにかく、問いの螺旋から降りてしまった僕の世界には、ほとんど何も残っていない。他人の物語へと逃げ込む、気味が悪いくらい簡単に。それぞれの世界観を満たしている空気を何とかそこから取り出して、自分の世界にインストールしようしている。

現在は散らかっている。何から触り始めればいいのか。何も把握できない時、確かに自由の刑を感じる。自己陶酔な感性と、大きすぎる欲望。中途半端な忠誠心。

 

芸術。内にあるものか、それぞれの世界を吐き出す。構造的な魅力か、暴力的な個性は時としてすごく退屈だ。ある感覚、違和感の中にトリップ。全くおかしな世界の表層が至近距離でそこにあるけれど、内側が全然見えてこない。一時的な高揚感。物事の形と色、配置が演出する空間とそれが連れてくる感情。 

はっきりと始まったタイミング。無理やりフラットになったかと思えば、生き物が湧いて出てきたり、雲がリズミカルに動いたりする、水色の空は太陽に吸い込まれ続けている。人生の中でランダムに出現するあらゆる主張が、正しさを叫んだり吐き出したりしてなすりつけようとしているけれど、突拍子も無い出会いだから、僕たちはそれを本当に信用したりしない。納得が渦巻いている。満たされる一瞬手前、不安はやってくる。絶対を許さない絶対的なエゴ。映る全てを秩序付けることへの妄想。問いは終わらない。

 

今の感情を作り上げたものが何なのか僕は振り返りもせず、その結果だけを継続している、そこに根拠は見えない。発端はすでに忘れられて、僕は昨日の感情を何も考えずただロードしている。固定されている現実とグロテスクな本質が交互に見え隠れしているようで、逃げるように幻想の中で生きようとする。音でも。写真でも。映像でも。文章でも。あらゆるデザインも。都市の呼吸も。全てが現実から僕を滑り落としてゆらゆらした連結の世界を一瞬だけ見せる。それはぎこちないリズムを刻んで、テンポを目指している。

感情は向こうからやってくる。自分の中から湧いてできたりしたことなんてない、みんな。物事の方からやってくる。僕らは宇宙で漂う無数の星のように、光を遮って映すランダムな個体。自分が発光体なのだと勘違いをするだろうか。

 

どこで誰と、何をしていれば満たされるのか。何を持って何を捨てて何を感じていれば安心はやってくるのか。

 

ピアノから始まってウッドベースが聞こえてきた。隣の部屋では安いビートが落ちる。縛られないメロディと、不規則なシンコペーション。プラットホームから始まる映像と、足元だけが楽しそうに動いている人間。大きな街。

 

 

 

#015

晴れ。僕がいるところから雲は一つも見えない。

部屋の窓からは木漏れ日が落ちている 。

 

先のことばかりを考える。いつか訪れるはずの理想的な時間のために現在を耕しているという認識が僕を慰めたり、ゆるい幸せをちらつかせたりしている。お宝は今この現在にしかないということを友人に言われて、何だかすごく損をしている気分になった。

 

大き過ぎる欲はコントロールを失って、結局僕だけが人生と関わっていないということになる。決断できないのは欲が強過ぎるか、悟性が足りないからだというのは本当かもしれない。機は熟したりしない。あれでもないこれでもないとやっているうちに人生は終わる。

 

 

生活が整理されて、世界が少しだけノスタルジックに映る。役者は木漏れ日、夕方、ある種の音楽とか温度とか。部屋にさす陽の光と、だらしなく動くスクリーンセーバー。夕方のプールサイド。それらに名前をつけて大事にしまっておいたとしても思い出すことはない。詩情フィルター。それを引き連れて歩くと、やり切れなさだけが残る。 

 

なんとか目に焼き付けようと、ずっとそのシーンの中に立っている。視野の全部で舐めるように見てもなにも手に入らない。美しさに魅せられているのではなく、失いたくないという気持ちに囚われる。景色に参加することができない僕はものごとの平行線を乗り越えて全てを自分のものにしようとするけれど、その場所でじっとしていることしかできない。

 

手に入れてすらないはずのあれこれが目の前に現れて喪失感だけを残して消える。僕だけがおぼえている。この一幕と共にフェードアウトしたいと願う。

 

生活の中で印象的なシーンに出会うたびに何かがプロットを動かしているような気分になるけれど、それは錯覚なのだ。物語は過去になってはじめて紡がれ、理解される。現在にぼくの居場所はない。ただ見ているだけで、それが後ろに流れるとき僕は生き生きと役柄を演じ始める。

 

 

過去の自分を振り返る。二つの視点が介在することで初めて人生は把握される。当事者として呼吸をする現在の僕はその残像を追うよう生きている。同じ場所を踏んで、同じ景色を見ようとするけれど、僕はそこにはいない。

 

 

 

 

#014

天気のいい日、木陰でタバコを吸う。

 

真っ白なコーヒーカップ。真っ黒なコーヒー。

背中が暖かくなってくる。風が影を揺らしている。

 

車を運転する。ブドウ畑がずっと続く。窓を開けて手を出しても大丈夫。ダイエットコーラの350mlが好きなのだけれど、昨日の残り。それのぬるいやつを飲む。まっずい。スピーカーからの早い音楽が信号を無視して抽象する。

 

 

部屋が散らかってきた。そらは怠惰を許しているのではなくただ僕を甘やかしているのだ。ラムの空き瓶。底に溜まった吸殻。ビタミン剤。百科事典。チャックの壊れたビニールのジャケット。

 

生活の輝きは、どういうことか、この不透明から来ている。

存在の理由が見当たらないこと。理解を許さないものごと。不可解。それこそがまさに生活を彩り、尊いものにする。わからなさこそが、そのエネルギーの発信源だった。アクセルを踏む感触も、暖かいカップを受けとる時少し触れる指先も。僕が死ぬことの確信から踊るように逆算されて初めてそれが浮かび上がる。そのシーン。積み重ねる生活の全ての瞬間。それぞれが意味をもつ。それぞれが僕を通して始まりと繋がる。僕の終わりを匂わせて、その物質は、それぞれはそこにあって、それは今この瞬間に、そして大きく広がる。

 

誰も知らない。僕たちが一体何なのか。静かにじっとしていると四肢の重みが家具に乗る。接着しているところから僕が始まっている。

全てを知っているように、これから何が起こるかその眼の奥で知るように僕たちは歩くし、話すし、動くし。

 

ずっと前の原因まではそう遠くない。空っぽなペットボトルの先で焦点を失う景色からでもそれは少しずつ見えてきたりする。

 

ものごと全ての混乱を抱えて景色に写す。驚きとおおきくて気持ちのいい波が始まる。生活はそれの折り重りなのだ。疑問が諦めに変わるとそれらは答えを嫌うだらしない視点になる。それは極彩色の分厚いフィルターへと変わり僕のレンズとなり、生活は色とりどりに輝き始める。意味が全部消え失せて、気持ちも擦り切れて、人間生活のお粗末なカラクリが無残に、その骨組みが晒される、それでも僕は楽しくなる、喉を通る冷たい水、大きく吸い込む空気、汗でぬれたTシャツ、動いて、全部わからなくなって、気持ちよくなる。全部捕まえようとして僕は全部取り損なう。

 

人が話すのを見る、書いているのを見る、動いているのを見る。僕たちはじっとしてられない。器官が理由を作り、1日を真っ当に浪費する。つまらないことを考えず働いたり、恋をしたり、酒を煽ったりするのが本当の楽しみ方なのだという。回り回って僕も賛成。大賛成!

 

 

 

 

 

#013

221Bという表札。僕はここに住んでいる。

例の名探偵が住んでいた部屋番号と同じなのだ。だからと言って何というわけではないけれど、一回生の時数学基礎で知り合ったイギリス人が部屋へ来た時にひどく喜んでいたので思い出した。ベイカーストリートには今やチェーン店が並んで、霧の都の面影はどこにもないらしい。

 

宇宙のどこにもこんな場所はない。街灯は輝いている。通りの角にはカフェの光が落ちて、陽気な音楽が流れ出している。人々は歌って、踊って、酒を飲む。冷たくて、暴力的で、意味なんて見当たらないこの真っ暗な宇宙の中でも、人の街にだけは光がある。つまりこんな場所は火星や木星にはないということ。受け売りの言葉だけれど。

東京にいた時にも同じことを思った。通りを歩けば、電飾が白い体に映る。100年もすれば笑ったり泣いたりしているこれら全ての、大勢のぶよぶよした塊は消え去って、似た形をした全く新しいものが湧いて出てくる。人間としての時間は、何もないところからポツリと降って来たものではなくて、物事が一時的な集合をして世界を写す装置を作り出しているように感じる。

 

 

死刑台を登るとき何を思うだろうか。一時間後 、世界はもうない。これまで慣れ親しんで来たあらゆる物事が、綺麗さっぱり消え去る。それもわからない。

物理的な作用が、最も現実的なやり方で彼の全宇宙を消しとばすのだ。

例えば縄を首にかけられる時、家族で行ったレストランのたらこスパゲティの味とかを思い出すだろうか。死の瞬間直面する現実も、本質的にはそれらと何も変わらないはずなのに別の世界の出来事のようなのは、死があたかも有から無へ、僕の存在をひっくり返してしまうように思えるからだ。

僕は最も現実的なうちに死ぬ。その現象は、単に物質の変化だともいえるかもしれない。全存在を一枚の絵画に例えた人間がいたけれど、それがディスプレイだとしても、僕が死ぬと言うことは、僕の居場所である一つのドットが、その色をかえると言うことだけなのだ。僕は死んでもどこにもいけない。消えたりはできない。ただ存在を自称できなくなるだけで、それを構成していたあれこれは、無に変わったりはしない。

存在を自称できるのは人間の特権だと思う時がある。思い上がりなのだろうな。

 

 

 僕は時代の上に立っている。空騒ぎに便乗するには、忘れないといけないことが多すぎる。酔っているのは僕なのか景色の方なのか。それは同じこと。遠くの絶望をわざわざ捕まえにいこうとするのは、性癖みたいなものなのだと言われた。生きることに意味がないのが問題なのではなく、生きることの意味に意味などないことが問題なのだ。

 

今まで必死になって意味を消してきたのは、それは何かを諦めたいからなのか、正しいことを知ることがもう叶わないと感じたことの裏返しなのかは、わからない。

それでも価値を置いていたあれこれは全部清々しいほどにフラットになって、生活はどんどん奥へと引っ込んで行った。しかしその作業もほとんど終わったらしい。物事に対して不感症気味になったのはそのせいだろうか。書きたいことが見当たらないのもそのせいだろうか。

何一つとして正しいことは言えない、言い切れない。だから答えを出さない。YESともNOとも言わないことが一番誠実だと僕は思っているけれど、疑っているうちに落としどろこを見失う。居場所はどこにもないのだと。どこにいても落ち着かない、何をしていてもわからなくなってくる。これがこうである理由。僕がここにいること、物事が目の前に広がっていること。

 

かもしれないというあらゆる可能性を均等に扱っているうちに、進むべき方向も失う。

 

 

もっと新しく、ダイナミックに見方を変えらたなら、生活をおおう虚無感は、むしろ世界は満たされていると叫び始めるだろうか。

 

 

#012

ラッキーストライクを一箱もらった。

 

ラッキーにストライクするタイミングがこの先の未来に横たわっている、なんてことはない。現在を犠牲にしないことには能天気な希望的観測が最終的に僕を絞め殺すだろう。生活は難しい。

 

 

"The artist's job is not to succumb to despair but to find an antidote for the emptiness of existence"

昨日見た映画のワンシーンで引っかかったセリフ。芸術家の仕事は存在の空虚に敗北することではなくそれに対する緩和剤を発見することなのだという。目を背けて明るく愉快にやっていこうなんて姿勢の方がよっぽど敗北なような気もしたのだけれど。どれだけ生き辛くても虚無感からは目をそらさず、その上何か能動的な意志を作り上げていくのだみたいなニュアンスなのだとしたらそれこそ超人だ。そんな奴は神をも殺してしまう。

時代性だろうか。

 

イヤホンをLとR反対につけてみた。いつも聞いている音楽が少し違って聞こえてくる。小さな変化が少しだけ嬉しい。何かを忘れてもいいのではないかと思い始める。

 

 

 

 

 

 

僕はついに選ばれなかった。これが何かのきっかけになればと思う。

 

 

#011

毎週土曜の午前中は、街の中心でファーマーズマーケットが開かれる。2週間ほど渋っていた雨雲がようやく動き出した。昼頃にはずいぶんと暖かくなってきたので上着を脱いだ。晴れると生活に色彩が戻るというか、彩度がぐんと高くなる感じがする。トマトが反射してすごく赤い。「すごく赤い」なんてよくわからないけれど。

カラフルな作物。コーヒー豆、はちみつ、大きなイチゴ。それからいびつな形をした陶器なんかもあった。みんな笑っている。大きな荷物を抱えて道を横切る人。ベンチに座って絵の具を売る老人が何やら話している。それを聞いている若い女の人。

通りを歩く。もうこの街に住んで短くはないのに、知らないところがたくさんある。知らない人たち、入ったことのない店、見たことのない風景。賑やかな音楽がどこかのバーから流れてくる。理髪店で髪を切っている人。何を話しているのだろう。

古本屋でヘミングウェイの’移動祝祭日’を買った。4ドル。

 

物語はひとりでに展開していったので、それに歩調をあわせて書いてゆくのに、私は苦労していた。もう一杯ラム酒セント・ジェイムズを注文した。そして私は目を上げるたびに、あるいは鉛筆削りで鉛筆を削るたびに、その女の子を見つめた。鉛筆の削り屑は、くるくる巻いて、私の飲物をのせてある台皿の中に落ちた。

 美しいひとよ、私はあなたに出会った。そして、今、あなたは私のものだ。あなたがだれを待っているにせよ、また、私がもう二度とあなたに会えないにしても、と私は考えた。あなたは私のものだ。全パリも私のものだ。そして、この私はこのノートブックとこの鉛筆のものだ”

 

とても僕一人では抱えきれないような、捉えきれないような生活の輝きが僕の周りにはある。手が届く範囲の、目に見える範囲にでさえ、ほとんど無限とも思えるような幸福への可能性が開かれている。スピーディーに、あるいはゆったりと、それらは生活を横切っている。全てを目で追っているうちに、理解と、把握を夢見ているうちに、僕がかろうじて触れられたのは残像みたいなものだった。捉えようとして、その全てをすくい損なう種類の人間。どうしようもない欲が、通りの隅々まで染み渡っていく。

僕の重さが伝わるところの上には、いつでも僕がいる。消えて粉々になっても、それは変わらない。消滅なんてできないというわけだ。瞼を開くだけで、見えない地平線にまで僕の人生が届く。

 

 

それにしても今日は綺麗な人とよく会う。「新しく鋳造した貨幣みたいに新鮮な顔」とヘミングウェイは形容している。だらだらとしたパラフレーズが、少しの倦怠感を連れて横たわる。

 

 

#010

 

夢を見た。

弟の子供に懐かれる。僕はすごく眠たくて、なんども寝ようとするけどリビングが賑やかで眠れない。母親に「一緒に遊んであげなさいよ」と言われる。小さな子供がテレビにかじりついている。僕は「我が闘争」の下巻を読み聞かせている。ヒトラーのカリスマ性の2パーセントくらいはあのヒゲにあったかもしれないとう話をいつか父親としたことがある。

 

久しぶりに夢を見た気がする。目覚めが悪い。シャワーを浴びる。妙に筋肉がついた。暗い気分から逃げるように無理やり体を動かしていたせいかもしれない。

 

昼。同研究室の人と話をする。引用がやたらに多い。二十歳がひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとはだれにも言わせまい、と言ったのが印象的だった。

 

大学のロビーで以前親しくしていた人と偶然会う。「そっちに座ってもいい」と聞かれた。何も言わず僕がその人の生活から消えようとしたこと、普通にバレていた。あんまり怒っていないみたいだったけれど。今度コーヒーを奢る約束をする。覚えのある匂いがした。

 

ビルの表面からは巨大なディスプレイが湧き出ていて、保険会社の社長の笑顔やいびつな形の自動車のコマーシャルなどがながれている。殆どうつむきながら道路を横切る人たちの顔が、青い光を映して点滅しているみたいだった。

時代の色。火星に住もうとしたり、インターネットが物質になったりする。

 

全て投げ出す。気分はよくなるだろうか。いらないものばかり。捨ててしまう。ガラクタを売って、お酒を買う。セックスをしてタバコを吸って、それからどうでもいい本を読む。ボロボロの、空っぽな家に住む。美味しいものを食べる。まるい形の車を買う。重たいジャケット。

 

カレーライスを食べて水を飲んだ。とても美味しい。

そのものが好き、だなんてことはありえない。水やカレー自体が好きなのではなく、水と僕が好きなのだ。水を飲む僕。ならこの生は?

 

ポップな死。カラフルな自殺。ポップな生は退屈だろうか。それは単色だろうか。みんながパンっと弾け飛ぶ。色とりどりの臓器はカラカラと音を立てて地面に落ちる。

 

ドアに紙がねじ込まれている。”ロストジェネレーションの作家たちについて語り合いましょう”という見出し。サルバドール・ダリの自画像が強引にコピーアンドペーストされている。ヒゲと白目が目立つ。僕はあまりヒゲが生えないタチだ。ところでなぜダリなのだろう。スペイン人だし、彼は失われた世代ではない。

 

芸術家は現代性を取り出してキャンバスに落とそうとしているという話をどこかで聞いたことがある。不思議な感じ。1日中同じ絵を観ている人。

ノートの最後のページの殴り書き。「人間、時代、浮遊感、お祭り、ジャズ、テクノロジー、都市、路地裏、喫茶店、アルコール、友人、美しさ、存在」

 

レコードを買った。ビルエバンス。晩年はほとんど時間をかけた自殺のようだったと伝記に書いてあったことを思い出す。時間をかけた自殺というなら昨日生まれた人間にもそれは始まっているのだろう。「Undercurrent」というアルバム。1962年という表記。アンダーカレント、底流?

一曲目はマイファニーバレンタイン。明るいアレンジだった。

 

 

まだ早いけれど電気を消す。すごく眠い。いいことだと思う。空のペットボトルの底からライトを当てる。壁に模様が浮かぶ。