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DIARY

パラダイス銀河

#010

 

夢を見た。

弟の子供に懐かれる。僕はすごく眠たくて、なんども寝ようとするけどリビングが賑やかで眠れない。母親に「一緒に遊んであげなさいよ」と言われる。小さな子供がテレビにかじりついている。僕は「我が闘争」の下巻を読み聞かせている。ヒトラーのカリスマ性の2パーセントくらいはあのヒゲにあったかもしれないとう話をいつか父親としたことがある。

 

久しぶりに夢を見た気がする。目覚めが悪い。シャワーを浴びる。妙に筋肉がついた。暗い気分から逃げるように無理やり体を動かしていたせいかもしれない。

 

昼。同研究室の人と話をする。引用がやたらに多い。二十歳がひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとはだれにも言わせまい、と言ったのが印象的だった。

 

大学のロビーで以前親しくしていた人と偶然会う。「そっちに座ってもいい」と聞かれた。何も言わず僕がその人の生活から消えようとしたこと、普通にバレていた。あんまり怒っていないみたいだったけれど。今度コーヒーを奢る約束をする。覚えのある匂いがした。

 

ビルの表面からは巨大なディスプレイが湧き出ていて、保険会社の社長の笑顔やいびつな形の自動車のコマーシャルなどがながれている。殆どうつむきながら道路を横切る人たちの顔が、青い光を映して点滅しているみたいだった。

時代の色。火星に住もうとしたり、インターネットが物質になったりする。

 

全て投げ出す。気分はよくなるだろうか。いらないものばかり。捨ててしまう。ガラクタを売って、お酒を買う。セックスをしてタバコを吸って、それからどうでもいい本を読む。ボロボロの、空っぽな家に住む。美味しいものを食べる。まるい形の車を買う。重たいジャケット。

 

カレーライスを食べて水を飲んだ。とても美味しい。

そのものが好き、だなんてことはありえない。水やカレー自体が好きなのではなく、水と僕が好きなのだ。水を飲む僕。ならこの生は?

 

ポップな死。カラフルな自殺。ポップな生は退屈だろうか。それは単色だろうか。みんながパンっと弾け飛ぶ。色とりどりの臓器はカラカラと音を立てて地面に落ちる。

 

ドアに紙がねじ込まれている。”ロストジェネレーションの作家たちについて語り合いましょう”という見出し。サルバドール・ダリの自画像が強引にコピーアンドペーストされている。ヒゲと白目が目立つ。僕はあまりヒゲが生えないタチだ。ところでなぜダリなのだろう。スペイン人だし、彼は失われた世代ではない。

 

芸術家は現代性を取り出してキャンバスに落とそうとしているという話をどこかで聞いたことがある。不思議な感じ。1日中同じ絵を観ている人。

ノートの最後のページの殴り書き。「人間、時代、浮遊感、お祭り、ジャズ、テクノロジー、都市、路地裏、喫茶店、アルコール、友人、美しさ、存在」

 

レコードを買った。ビルエバンス。晩年はほとんど時間をかけた自殺のようだったと伝記に書いてあったことを思い出す。時間をかけた自殺というなら昨日生まれた人間にもそれは始まっているのだろう。「Undercurrent」というアルバム。1962年という表記。アンダーカレント、底流?

一曲目はマイファニーバレンタイン。明るいアレンジだった。

 

 

まだ早いけれど電気を消す。すごく眠い。いいことだと思う。空のペットボトルの底からライトを当てる。壁に模様が浮かぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

#009

日曜。四月。

 

やるべきことなんてないのに、そのはずなのに生活が僕を急かしている。秒針だとか空腹だとか、一日のシーン。僕は引っ張られたり追いかけたりしている。

しあわせが未来に保存されているわけでもないのに、時々それを削っているような気分になるのはなぜだろう。割れ物のように人生を扱っている。

 

日差しが強い。風がある。歩きやすい靴。表通りに人影はほとんどない。中心街まで歩く。今日は祝日、少し賑やかだった。アール・デコ調の建物、カラフルな人たちが吸い込まれていく。古いアイスクリーム店の前でホームレスのおじさんがギターでガシャガシャやっていた。6弦が切れていた。

 

いつもの喫茶店。コルトレーンのJust Friendsが流れている。3ドルのブランドコーヒーを頼んで席に座る。店の人の左腕にアラビア語のタトゥーが入っていること、今日気がついた。隣の席二人組が黒人の社会学者の話で熱くなっている。訛りが強い。女の人がマッチでタバコに火をつける。ラクダのマークのパッケージ。

本を持ってきたのだ。全然読む気にならない。すぐに眠たくなる。壁の模様をじっとみる。僕は別に何もしなくていいのだ。社会も、生活も。義務はない。目の前には漠然と時間が横たわっている。20数年の間に粘土みたいに捏ねあげられた僕の傾向がそれらをむさぼる。僕は自由を幻視している。このままエレベーターで最上階まで行って飛び降りる選択、隣の人に話しかける選択、大学に寄って退学届を出してどこかへ旅に出るという選択。僕が選んだのはiPhoneで明日の予定を確認してやらなければならないことをリストアップするというものだった。つまらないだろうか。波風を立てないように慎重に駒を進めていくうちに、右にも左にも後ろにも、斜め右前にだって一歩を踏み出せるということを忘れてしまう。ぼくの自由は記号の奥へと消えていき、人生はゆっくりと固定されていく、均一が見えてくる。出所のわからない不安。

 

ある種の感情を生活のあちこちから引っ張り出そうとしている。少し前までは自然と向こうからやってきた感じだった。月並みな言い方をすると、何かが在るということの不可解さ、あるいはヒミツみたいなものなのだけれど。目の前の光景の中に規則性が浮いてくるとき、物質の傾向とかを垣間見たとき、少しだけそわそわする。

借りていた本を返しに友人宅へ。部屋へ案内される。セックスした後の匂い。散らかっている。積み上げられた本。マルクス、レーニン、デュールケーム、フーコー、カミュ、シオラン、それから英訳版のノルウェイの森なんかもあった。スノッブを自称する僕の友人。水タバコの煙で表情がよく見えない、目にしみた。

 

どこに行ったって何をしたって目の前の景色を直視することはできない。わからない不安。選んでこなかった選択肢が胸焼けを起こさせる。みぞおちあたりがすごく重い。もらった瓶ビールを飲んだ。字を目で追いながら他のことを考えている。切れかけている蛍光灯、ホワイトボードに書かれた購入品リスト。行ったこともない街のこと。40年前のパリだとか。

 

どこか別のところからつまみ出されてここにいるのではないかと感じる。人生は一直線に映っているはずなのに、ありもしない幸福の可能性や自由への幻想が僕の頭に安っぽいの羅針盤を作り上げた。空っぽの球体の中心にいるような気分になるのはそのせいだと今は思う。どれだけ考えても、何を感じても、ずっと待ち焦がれている大きな納得感はやってこない、世界は整理されない。透明の秩序が僕を乗せて現実を駆け抜ける。僕は何なのか、どこにいるのか、何をするのか、なんで動くのか、なんでこんなもの食べてるんだ、全然わからない。なんで歩いているんだろう、どこに向かっている。なんでこの人の後ろを歩いているのだろう、なんで。

 

書きたいことはこんなことじゃなかったと思う。道の真ん中をサンダルで歩いたこととか、太陽の光で気分が良くなったこととか、そういうこと。

 

ぞくっとするような世界の秘密は多分もっとも現実的で、退屈なんだろうなって思う。でもそれでいいし、それがいい。ぜんぶが束になって一箇所に集まって、僕はそれを掴んで意気揚々と歩き始める。そういう一日にたどりつくことを妄想したり、しなかったり。

 

 

 

#008

全部僕の勘違いかもしれない。

現代美術館。広い。静かだった。

芸術、他人の表現。つまらない風景画から存在を切り取れというのか、美しさ?ただ退屈なだけだった。どんな絵を見ても、写真を見ても、映像を見ても、音を聞いても、どれだけ奇抜な凹凸を目にしても、キラキラひかる大きなディスプレイを見せつけられても。それらは全然どうでもいいじゃないか。全然関係のないことじゃないか。核心というものがなんなのか僕は知らない。しかしそれらは全て一番遠いところにあるような気がする。それは保険会社の広告や、スマホケースのデザインくらいどうでもいい、それは、シャープペンシルの細さの種類くらいどうでもいい。

 

芸術活動がスポーツみたいになっていると感じた。

そういえばスポーツ選手なんかはどう考えているんだろうか。生きるということを。僕も競技に携わってきた。確かに学んだことはある。でもそれは大事なことなどではない。そこに価値やら真実はない。結果を争うということになると、そこには過程が生まれてくる。それに一喜一憂をする。その中に重要なものを見出す。それを存在そのものの重要事項と無意識のうちにすげ替えてしまう。しかしどうだ。早く走ったり、遠くにまでボールを飛ばしたり、体をうまく動かしたり。どうでもいいだろう。熱量があまりにも大きいとその行為が、そのプロセスの中で育まれたメンタリティは、奔走を始める。本当はどうでもいいことだろう。一定期間酔いを覚まさずに済む暇つぶしの一種なはずだろう。なぜそこに妙な意味合いがぶら下がってるんだ。涙を流す、体を動かす、目標を達成する。基本的な構造に忠実なだけじゃないか。努力?何かをやっていれば不安にはなりにくいだろう。

成長やら向上やら努力やら目標達成やらを悪くいうつもりはない。ただそれを人生の重要なファクターのように扱う風潮が気に入らない。人生を作ったのは人間。本来そこにあるのは、生々しい現実感。それは文明化された人間で有る限り感じ得ないのだろうか。苦痛、不条理、恐怖。死ぬこと。死ぬまでごまかし続けて生きているのだろうか。それともほとんどの成人が、自らの行為や人生が微塵の意味も持たないこと、くだらない暇つぶしかあるいは社会システムに否応無く形取られたものだということ、理解しているのだろうか。彼らは苦痛の表情を浮かべながらも笑顔を作って、日々を生きているとでもいうのか。それほど人間は利口で強いのか。そうは思えない。みんな全く別の方向をみてそっちでワイワイやっている。血の気が引くような存在の不可解さとあらゆる活動の無価値を感じて青ざめたりはしない。それらを全部抱えて、血反吐を吐きながらも人生をよしとする人間。そういう種類の人間。そんなのはいない。

スポーツ選手がインタビューで涙を流していた。ミュージシャンのライブで観客が涙していた。友人が、芸術家のドキュメンタリー映画を観た後涙していた。違うだろう。どれも感情じゃないか。どういう風に捉えているのか全然理解できない。昔の学者も今の学者も。何かを信じているもしくは確信めいたことをいう時点でその人間は利口とは言えないだろ。アカデミアにいる人間はみんなそうなのか。

やっぱり。生きていくためには、大切にするべき種類の感情、価値と認めなくてはならない物事があるみたいだ。僕はそれらに迎合できないどころか生理的な嫌悪感すら感じる。 ずっと昔からこうだ。ぜんぶ戯れじゃないか。なんで泣いている。なんで怒っている。なんでそこまでのめり込めるんだ。教えてほしい。よく喋るな。どうして、そこまで一喜一憂できる。死ぬまでの時間つぶしだろ。積み重ねてきた感情がそれを否定するのか。

 

この感じ。どうしても理解してもらいたい。無理矢理にでも脳みそにねじ込んでやりたい。僕たちがやっている全てのものは、文字通り全てが、重要なことではないということ。深刻な顔で生活しないでほしい。やってきたことはどうでもいいくだらない暇つぶしだったんだと、なぜ感じないんだ。もしかして感じているのか。だったらなんでそんな風に笑ったり、泣いたりできる。なんでそんな風に話せるんだ。誰も存在の不可解さに混乱したりはしない。そんなのことはバカバカしい。しかし人類がみんなそうなれば社会は止まる。むき出しの人間性だけが、時には暴力と共にやってくる。そういうのがみたい。そういうのしかみたくない。

個展を大げさに開いている芸術家に1年ほど前あったことがある。僕は熱くなってしまった。「お前が作った全てはくだらないガラクタだ。僕は何も感じない」そう言ったら彼は僕の目をずっと見つめていた。「自分が偉大だとでもいうのか、お前の情熱は全く違う方向に向いている。その情熱は恐怖の裏返しだ、不安の裏返しだ。問いを持たず、結論めいたものを早々と作り上げた、お前は、そこで踏ん反り返ってるお前は、何一つ正しくはないし、何一つとして価値あるものなど作っていない。お前がやっていたことはお前の性癖に沿ったマスターベーションの仕方だろう。それがスポーツか、芸術活動か、恋愛なのか、なんでもいい。とにかく、僕らの人生は重要ではないし、価値もない。だから何か大切なことに関わってるみたいなツラで生活するのはやめてくれ。深刻な表情も浮かべないでくれ、真剣なふりをするのもやめてくれ。僕らはただ神妙な面持ちで自慰を繰り返しながら死ぬまでの時間を潰しているだけだぞ。そろそろ考えたらどうだ。」僕は多分恐ろしく幼稚なのだ。そのあと僕は思いっきり殴られた。結構大きいやつだったから痛かった。白人は腕がながい。

 なんで誰も言わない。政治家だって、経営者だって、学者だって、アスリートだってなんでもいい。僕たちのやってることはただのオナニーだって言ってもべつにバチは当たらないだろう。子供の頭に虚無を無理矢理ねじ込むような奴は多分捕まるんだろうな。もう終わりにしていい。生活を逆進させて、無へと向かわせる。両目からは生気が消えていく。活動が静かになっていく。人間はそうやってゆったりとした自殺を種族単位で行う。社会が回らなくなる。絶滅する。全ての存在もしくは諸々の原因となる何か(神とは呼ばない)に牙を向く手段があるとするならば、生への能動性など投げ捨てて、自分の実存を否定することだろう。存在を疑い、それを嫌い、否定する。自ら終わらせる。死んだあと原因に会えるなら、死ぬまで殴ってやりたい。殺してやる。 

 

だめだ。部屋から出ないとこうなる。

 

さっきご飯を食べに外に出た。夕焼けがきれいだ。空気が澄んでいて、パインツリーが面白い影を落としていた。バスケットコートで、黒人がワイワイやっている。大きな声。みんな楽しそうに笑っている。僕は少しいい気分になった。待ち合わせの場所には友人がいた。こっちを向いて笑う。僕も少し笑う。暖かいものを食べている。こっちを観ながら話しかけてくる。僕らは声を出して笑う。楽しいな。日が沈みそうだ。

 

 

 

 

 

#007

暖かい日。何回か上着を脱いだ。

 

6時過ぎに帰宅。キャンパスを歩いているとなんとなく夏っぽい匂いがした。まだ3月だぞ。

小さい頃は週末よく家族でどこかへ遊びに行って、晩御飯も外で食べて、帰りに温泉によったりしていた。帰り道、車の窓を開けると夜の匂いがする。どこも変わらない。両親は元気なのだろうか。全然会ってない。元気でいてほしい。この1年は忙しい。多分今年も日本には帰れない。

 

「生活に忙殺されているうちに人生は過ぎ去っていく。人生が短いのではなくて我々が人生を短くしている。」みたいなことをいつかのギリシャ人は言っている。

当たり前だ。わざわざ言われなくてもみんなわかっている。無駄な時間と言うのはなんだ。酒を飲んでいるとき?インターネット?そんなものはない。

人生は使い方を知れば長い。だが世の中には飽くことを知らない貧欲に捕われている者もいれば、無駄な苦労をしながら厄介な骨折り仕事に捕われている者もある。酒びたりになっている者もあれば、怠けぼけしている者もある。他人の意見に絶えず左右される野心に引きずられて、疲れ果てている者もあれば、商売でしゃにむに儲けたい一心から、国という国、海という海の至るところを利欲の夢に駆り立てられている者もある。絶えず他人に危険を加えることに没頭するか、あるいは自分に危険の加えられることを心配しながら戦争熱に浮かされている者もある。また有難いとも思われずに高位の者におもねって、自ら屈従に甘んじながら身をすり減らしている者もある。多くの者たちは他人の運命のために努力するか、あるいは自分の運命を嘆くかに関心をもっている。また大多数の者たちは確乎とした目的を追求することもなく、気まぐれで移り気で飽きっぽく軽率に次から次へと新しい計画に飛び込んでいく。(セネカ・生の短さについて)

 人生を浪費することなんてできない。あらかじめ意味の与えられていないこの人生に、無駄な時間も有意義な時間もない。部屋で一人テレビゲームをしていても、火災現場で救助活動を行っても、気に入らない奴の額に銃口を突きつけていても、それらの時間に優劣はない。人生のあるタイミングで過去を評価する時、その時点での自分の目的に沿っている過去の時間の使われ方だけが意味あるものに見えるかもしれないけど、どうだ。単に恣意的なもの。

 

ずっと前から知っている。今更なんだという感じ。どれだけ楽しくても、どれだけ悲しくても、何もわからずに踊っていることに変わりはない。

もっとなんでもない出来事とかを書くべきなんだろうな。でもなんだろう。周りの出来事のことなんてろくに考えていない。姿勢が良い女性が素敵、白人はちょっと喋りすぎ、とかは今日少し思った。これからお湯を沸かしてコーヒーを飲む。

広い部屋と良い車が欲しい。すっきりしたキッチンと、それからチェットベイカーのレコードも欲しい。すっきりした自転車、すっきりした服、すっきりした靴、すっきりしたメガネ、すっきりした髪型、すっきりしたタオル、すっきりした生活。

 

んー。たしかに人生はなんとなく過ぎていっている。

 

 

 

 

 

#006

のっぺりした一日。

あまり好きじゃない。違和感。生活がどこまでも続くような感じ。僕達はこの姿のまま永遠に生き続ける。日常は続いて、社会がそこにはあって、ゆるい倦怠感が流れ続ける。死が近付いたり遠のいたりする。近付いてくると、大事だったものは全部どうでもよくなる。無意味さも、虚しさも、快楽も。数式のこと、誰かの詩、全部忘れる。

多分死ぬ瞬間は、その日の朝食べたパンの事とかを考えるだろうな。聞いていた音楽。生活は輝いている。僕はその一部となって、感情に世話を焼かれながら暇を潰す。

僕はいつ死ぬのだろうか。どういった場所で、どういう状況で。今この瞬間も、僕らはじっくりと死ぬタイミングを作り出している。死因はなんだろうか。変な気持ち。いつまでも続くように思えるこの毎日の先に、その瞬間は必ず存在する。僕はそれを生活の、日常の一部として理解するだろうか。僕にとっての現実は、太陽の光だとか、笑った顔だとか、ドレッシングの匂いだとか、缶ジュースの冷たさだとか。死は現実的ではない。ビルの屋上で逆立ちでもしてみるか。生活を作るありとあらゆるものが死ぬことを忘れさせる。移動、楽器、食欲。

 

曇りの日はやっぱりだめ。どうしようもない感じ。例えば飛行機が墜落して生き残っても、死体の向こうに広がるのは、残骸の中から見えるのは、それは慣れ親しんだ感覚。日常が在るという感じ。生活が目の前に広がっている。時間が、空間が、色彩がある。次の朝、その次、毎日が横たわる。

 

死ぬことを忘れてしまいそうになる。

 

映画館を出た後の日差し、喫茶店がある路地裏の匂い。歩く。コンビニから聞こえてくる音楽。電車。流れる景色。液晶画面を見つめる人たち。僕はなぜ生きている。両手が重たくなってくる。足が動かなくなってくる。目の前の景色、立体感がない。なぜ何かが在るのか。

気持ちが爽やかに揺れ動く。新しい環境。恋人。就職活動。親しい人間の死。振り回されて、踊っているのは楽しい。全部忘れて、ゲームに乗っかる。感情を見つめたりしてはいけない。没頭しないと。広がる宇宙のことも忘れよう。どれだけ大きいかなんて僕は知らない。 

 

深刻さを演じられる人、という話をした。どうでもいいこと。

男女問わず、容姿が整った人間の深刻さ以外は深刻に映らないか、もしくは表情からは汲み取りにくいということ。男性だったら背丈があって、痩せ型と言うのも要素だなと思った。ロシア文学の悲劇的主人公はいつだって美形だ。

 

さて、明日はたくさんの人の前で発表しないといけない。ちょっとだけ緊張する。人前で話すときは、ゆっくり、大きく、トーンは抑えめに。。おやすみなさい

 

 

 

#005

水溜りがそこら中に。

昨日はたしかに雨が降っていた。景色のところどころが切り取られて地面に落ちている。

 

同じアパートに住む友人の引っ越しパーティがあった。4月から東海岸の大学院に行くらしい。同居人によると、1ヶ月前イエールから不合格通知を受け取った時、彼が実存に対して自主的なボイコットを敢行した噂は本当だったらしい。持ち物のほとんどを捨てて、何も食べず何も飲まず素っ裸で一週間近くを過ごしたそうだ。しかし僕たちは存在をボイコットすることなんてできない。何も食べなくても、何も着なくとも、そこには重さがあって、気味の悪い実存の気怠さみたいなものが生身の体に連続している。

2年前図書館からの帰り道彼が、もう死んでもいいよなって言ったことを覚えている。死ぬ前にうちで余ってるスペアリブを一緒に食べないかって僕は言った。死ぬにしてもエネルギーはいる。彼は部屋から山のように本を持ってきて、それを燃やして僕たちは肉を焼いた。僕もそのタイミングでほとんどの本を燃やしてしまった。ドイツ人哲学者の本ばかりだった。いい感じの皮肉が思いつきそうな状況だったけど、思いつかなかった。そのあと吐くまでマリファナクッキーを食べたら僕たちはなんとなく幸せになっていた。

 

やらなければいけないことができないのはどうしてだろう。今日は全然だめだ。何も考えられない。少しだけ楽しい気分になってしまったからだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#004

これは日記だ。だらだらとつまらないことを書いてしまうことがあっても多少は許されるはず。誠実になるための場所が欲しいなら自分だけのノートに綴ればいいのだけれど、僕にとってインターネットの公共性というのはある種のモチベーションになっているらしい。こういうのずっと前にも書いていたような。

何もできない日が続いている。風呂にも入れなければ歯も磨けない。ただ同じ場所を見ている。本気で同情を誘いたいならもっとだらだらと醜態を書き連ねることもできるのだけれど、さすがに無粋なのでやめておく。月曜日になれば届くはずのDMAEに過度の期待をしているのは、今回は粉末で注文したからだろうか。吸収率がどうとか。

ベッドのそばには僕からずっと離れてくれない本がいくつか積み重なっている。トルストイの懺悔、シーシュポスの神話、青色本、コンスタンタンのノート、それからシェストフの本もいくつか。パラパラとめくっても、筆圧の強い殴り書きがそこら中に散らばって読めたものじゃ無い。唯一綺麗なチェーホフの伝記をパラパラとめくると、こんな一文を見つけた。

"Perhaps the feelings that we experience when we are in love represent a normal state. Being in love shows a person who he should be"

ずっと前に受けた西洋哲学のクラス最後の授業で、恋に落ちている時だけ私たちは世界の秘密から解放されるかもしれないみたいなことを教授が言っていた。恋に落ちるにしたって僕がこの世界を信用しきれない限りはどうにもならないんじゃない、そんな感じのことを思った。恋を盲目になるための手段と考えている限り僕はダメなのかもしれない。

少し前まで哲学を専攻していたことを誰かに話すと、金にならないだとか、緻密な感情論でしょみたいなことはよく言われたのだけれど一度だけ、あなたはきっと他より少しロマンチックなんだよって言われた時は不思議な気分になった。僕にとって正しくあることは確かに、ある種の格好良さでもあったのかもしれない。

ところでこの正しさのことを書き始めるのは本当によくない。紆余曲折を経ても結局、言葉は音でインクだという結論、それでもなお意味を見出してしまうのは僕らがそういう傾向と機能性をもつ生命体だからだみたいな大雑把な諦めに落ち着いてしまいそうなのでやめておく。今はもう言葉で自分に世界に意味は無いなんて言い聞かせなくても、世界の方から勝手に意味を脱ぎ捨てていってくれる。まあとにかく、無意味という意味に依存している僕は、問いを抱えて答えを出さずに生きていく強さを持ち合わせて無いということだろう。忘れることは意外とできる。けれど一度生活が軋み始めると、僕は原因を抽象の中へとダイブしながら見つけようとする。現実的な解決策などはすぐに飛び越えてしまう。抽象的に絶望的だから生活を進められないのか、生活を進めない理由として世界は空っぽだみたいな絶望を持ち出しているのか。わからない。どっちにしろ生きたいと願う僕の体にしたがって生活を進めなければいけないし、そのフィールドは不可解でそこに僕は意味も無意味も見出すことはできない。わずかに残された誠実さへのこだわりにこだわるなら、僕は、意味も無意味も見出すべきではなく、絶望すら許されるべきでは無い、と言いたい。物理的な傾向性と性質に首輪をつけられた僕の解釈は、もちろんそれらを乗り越えることはできない。僕が死ぬほど欲していた正しさは僕から遠いところにあるどころか、それ自体幻想だったのだ。ということもまた言い切れない(以下、無限後退)

ちょっとだけ一身上の話。芸術専攻に2年ほど前かえてから色々と手を出した。油絵、鉛筆画、写真、彫刻、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、建築、プログラミング、UXデザイン、映像、シナリオライティング、楽曲制作、などなど。ジャズを演奏したりもした。いろんなものに手を出して、なんとかストレスが少なく、かつある程度の納得感もあって社会でやっていくための手段を血眼になって探していた時期だった。自分で変化を作っていける作業じゃ無いと多分僕は耐えられない。で、消去法的にアートを選択しのだけれど、ちゃんとやっていけるだろうか。ニーチェは「23歳になって職業が決まっていなくてなんの問題がある。高貴な人間は職など持たない」なんていってたけど、そうはいかない。自己陶酔に甘んじている間にも僕の筋肉は分解されていき、いずれは飢える羽目になる。哲学で暇をつぶすにも食っていけないとどうしようもない。そういえば日本食が少しだけ恋しい。このままアメリカで就職するんだろうか。友人にパリの大学院を進められ、英語のカリキュラムもあるってことでそっちにも気持ちが少し揺れている。モラトリアムを無理やり延長させるのには少し抵抗がある。解釈はもう十分だし、もっと強い気持ちが欲しい。それは多分砂漠の真ん中で星を見たり、とてつもなくうまい料理を食ったり、可愛い人とセックスをしたりしないといけない。それから僕は移動を続けなければいけない人種なのだと最近思う。サバンナで動物と追いかけっこをしたり、アラスカでオーロラを見ながら風呂に入ったりしたい。いくら慾は虚しいだけだなんていってみても動物としての僕が異常なほどそれに魅了されている。

来年からはニューヨークに戻ることになりそうだ。この前いった時はとても寒かった。JFK空港は殺風景でよくないな。就職するなら日本かな、アメリカかな、ヨーロッパかな。糞食らえ。就職なんてしたくない。大量のお金を手に入れつつ、種々雑多な欲を贅沢に満たしつつ、タワーマンションで暮らしつつ、実存を憎んだりしたいんだ。承認欲求の最たるものは、間接的に関わる他人の自殺じゃないかと最近思う。例えば僕の創作物によって誰かが自殺したりしたらそれはとんでもなく気持ちいいんじゃないかなんて。ウェルテルの悩みみたいな感じかなー。ゲーテは内心嬉しかったんじゃないか。そう。僕は全部手に入れて全部否定したい。ヒエラルキーの頂点でちやほやされながら自分に酔っていたいんだ。それでも何もわからない不安やらふじょうりやらを中途半端にぶら下げならがら、絶望に飲み込まれるなんてことはない、絶望的にすら僕たちはなるべきではない。それほど確かなものなどないんだ。暇な時文学やら哲学書やらを適当に捲っていればいい。鎮静剤程度に。そんな風に生きられるだろうか。みんなはどんな風な世界に生きているんだろう。あー。とりあえずもう少しだけ熱中と陶酔を夢見て探すことにしよう。