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DIARY

パラダイス銀河

#005

水溜りがそこら中に。

昨日はたしかに雨が降っていた。景色のところどころが切り取られて地面に落ちている。

 

同じアパートに住む友人の引っ越しパーティがあった。4月から東海岸の大学院に行くらしい。同居人によると、1ヶ月前イエールから不合格通知を受け取った時、彼が実存に対して自主的なボイコットを敢行した噂は本当だったらしい。持ち物のほとんどを捨てて、何も食べず何も飲まず素っ裸で一週間近くを過ごしたそうだ。しかし僕たちは存在をボイコットすることなんてできない。何も食べなくても、何も着なくとも、そこには重さがあって、気味の悪い実存の気怠さみたいなものが生身の体に連続している。

2年前図書館からの帰り道彼が、もう死んでもいいよなって言ったことを覚えている。死ぬ前にうちで余ってるスペアリブを一緒に食べないかって僕は言った。死ぬにしてもエネルギーはいる。彼は部屋から山のように本を持ってきて、それを燃やして僕たちは肉を焼いた。僕もそのタイミングでほとんどの本を燃やしてしまった。ドイツ人哲学者の本ばかりだった。いい感じの皮肉が思いつきそうな状況だったけど、思いつかなかった。そのあと吐くまでマリファナクッキーを食べたら僕たちはなんとなく幸せになっていた。

 

やらなければいけないことができないのはどうしてだろう。今日は全然だめだ。何も考えられない。少しだけ楽しい気分になってしまったからだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#004

これは日記だ。だらだらとつまらないことを書いてしまうことがあっても多少は許されるはず。誠実になるための場所が欲しいなら自分だけのノートに綴ればいいのだけれど、僕にとってインターネットの公共性というのはある種のモチベーションになっているらしい。こういうのずっと前にも書いていたような。

何もできない日が続いている。風呂にも入れなければ歯も磨けない。ただ同じ場所を見ている。本気で同情を誘いたいならもっとだらだらと醜態を書き連ねることもできるのだけれど、さすがに無粋なのでやめておく。月曜日になれば届くはずのDMAEに過度の期待をしているのは、今回は粉末で注文したからだろうか。吸収率がどうとか。

ベッドのそばには僕からずっと離れてくれない本がいくつか積み重なっている。トルストイの懺悔、シーシュポスの神話、青色本、コンスタンタンのノート、それからシェストフの本もいくつか。パラパラとめくっても、筆圧の強い殴り書きがそこら中に散らばって読めたものじゃ無い。唯一綺麗なチェーホフの伝記をパラパラとめくると、こんな一文を見つけた。

"Perhaps the feelings that we experience when we are in love represent a normal state. Being in love shows a person who he should be"

ずっと前に受けた西洋哲学のクラス最後の授業で、恋に落ちている時だけ私たちは世界の秘密から解放されるかもしれないみたいなことを教授が言っていた。恋に落ちるにしたって僕がこの世界を信用しきれない限りはどうにもならないんじゃない、そんな感じのことを思った。恋を盲目になるための手段と考えている限り僕はダメなのかもしれない。

少し前まで哲学を専攻していたことを誰かに話すと、金にならないだとか、緻密な感情論でしょみたいなことはよく言われたのだけれど一度だけ、あなたはきっと他より少しロマンチックなんだよって言われた時は不思議な気分になった。僕にとって正しくあることは確かに、ある種の格好良さでもあったのかもしれない。

ところでこの正しさのことを書き始めるのは本当によくない。紆余曲折を経ても結局、言葉は音でインクだという結論、それでもなお意味を見出してしまうのは僕らがそういう傾向と機能性をもつ生命体だからだみたいな大雑把な諦めに落ち着いてしまいそうなのでやめておく。今はもう言葉で自分に世界に意味は無いなんて言い聞かせなくても、世界の方から勝手に意味を脱ぎ捨てていってくれる。まあとにかく、無意味という意味に依存している僕は、問いを抱えて答えを出さずに生きていく強さを持ち合わせて無いということだろう。忘れることは意外とできる。けれど一度生活が軋み始めると、僕は原因を抽象の中へとダイブしながら見つけようとする。現実的な解決策などはすぐに飛び越えてしまう。抽象的に絶望的だから生活を進められないのか、生活を進めない理由として世界は空っぽだみたいな絶望を持ち出しているのか。わからない。どっちにしろ生きたいと願う僕の体にしたがって生活を進めなければいけないし、そのフィールドは不可解でそこに僕は意味も無意味も見出すことはできない。わずかに残された誠実さへのこだわりにこだわるなら、僕は、意味も無意味も見出すべきではなく、絶望すら許されるべきでは無い、と言いたい。物理的な傾向性と性質に首輪をつけられた僕の解釈は、もちろんそれらを乗り越えることはできない。僕が死ぬほど欲していた正しさは僕から遠いところにあるどころか、それ自体幻想だったのだ。ということもまた言い切れない(以下、無限後退)

ちょっとだけ一身上の話。芸術専攻に2年ほど前かえてから色々と手を出した。油絵、鉛筆画、写真、彫刻、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、建築、プログラミング、UXデザイン、映像、シナリオライティング、楽曲制作、などなど。ジャズを演奏したりもした。いろんなものに手を出して、なんとかストレスが少なく、かつある程度の納得感もあって社会でやっていくための手段を血眼になって探していた時期だった。自分で変化を作っていける作業じゃ無いと多分僕は耐えられない。で、消去法的にアートを選択しのだけれど、ちゃんとやっていけるだろうか。ニーチェは「23歳になって職業が決まっていなくてなんの問題がある。高貴な人間は職など持たない」なんていってたけど、そうはいかない。自己陶酔に甘んじている間にも僕の筋肉は分解されていき、いずれは飢える羽目になる。哲学で暇をつぶすにも食っていけないとどうしようもない。そういえば日本食が少しだけ恋しい。このままアメリカで就職するんだろうか。友人にパリの大学院を進められ、英語のカリキュラムもあるってことでそっちにも気持ちが少し揺れている。モラトリアムを無理やり延長させるのには少し抵抗がある。解釈はもう十分だし、もっと強い気持ちが欲しい。それは多分砂漠の真ん中で星を見たり、とてつもなくうまい料理を食ったり、可愛い人とセックスをしたりしないといけない。それから僕は移動を続けなければいけない人種なのだと最近思う。サバンナで動物と追いかけっこをしたり、アラスカでオーロラを見ながら風呂に入ったりしたい。いくら慾は虚しいだけだなんていってみても動物としての僕が異常なほどそれに魅了されている。

来年からはニューヨークに戻ることになりそうだ。この前いった時はとても寒かった。JFK空港は殺風景でよくないな。就職するなら日本かな、アメリカかな、ヨーロッパかな。糞食らえ。就職なんてしたくない。大量のお金を手に入れつつ、種々雑多な欲を贅沢に満たしつつ、タワーマンションで暮らしつつ、実存を憎んだりしたいんだ。承認欲求の最たるものは、間接的に関わる他人の自殺じゃないかと最近思う。例えば僕の創作物によって誰かが自殺したりしたらそれはとんでもなく気持ちいいんじゃないかなんて。ウェルテルの悩みみたいな感じかなー。ゲーテは内心嬉しかったんじゃないか。そう。僕は全部手に入れて全部否定したい。ヒエラルキーの頂点でちやほやされながら自分に酔っていたいんだ。それでも何もわからない不安やらふじょうりやらを中途半端にぶら下げならがら、絶望に飲み込まれるなんてことはない、絶望的にすら僕たちはなるべきではない。それほど確かなものなどないんだ。暇な時文学やら哲学書やらを適当に捲っていればいい。鎮静剤程度に。そんな風に生きられるだろうか。みんなはどんな風な世界に生きているんだろう。あー。とりあえずもう少しだけ熱中と陶酔を夢見て探すことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#003

余命宣告をされたとして、死刑執行を待っているとして、僕はこの生を再評価するだろうか。それは、事実ではなく、起こりうる未来として。これからの出来事に対しての現在。僕にとって目の前に横たわる現実は、未来への伏線にすぎないということ。今この瞬間を生きるということは存在そのものの不可解さを直視するか、さもなくば自暴自棄になることなのだ。創造、例えばアートなんて、それは黙っていられないから吐き出してしまうマスターベーション。落ち着かせたり、孤独を紛らわせたり。この瞬間、というものに対する方向という点でのみ芸術活動は僕にとって価値がある。時間軸のずっと先の方に、僕たちの人生のスタート地点が見える。僕はこの一生を使って、人生を始めるための準備をしている。ないがしろにされる現在。この消費が関わっているのはふわふわした妄想への忠実性であって、本質的な、少なくとも僕にとってそう見えるものとは程遠いところにある。

環境と気持ちのいい感情がないと、全てが澱んで見えてくる。僕はどうぶつ。気持ちが良くないと、生活がうまくいっていないと、自分勝手に薄っぺらいエゴを振り回しては陶酔を繰り返す。酔ってるふり。ぜんぜん楽しくない。

 

#002

自分の才能。その最大公倍数を引き出せるような領域。そういう物理的なうごき。

#001

再開した。

色々と紙書いていてもなんだか整理できない。ので、繋がった文として留めたい。紙に文字を書く作業がまた億劫になってしまった。

生活を整えていくと、積み上がっていくような充実感が、薄い自己肯定と共にやってくる。たとえば、ルーティンを作る。食事をシンプルにする。ビタミンとタンパク質、それから少しの炭水化物。甘いものは飲まない、あ、でもココアは飲む、それからコーヒーと紅茶。でも基本的には水ばかり。甘いもの、食べるのはチョコレートだけ。単純なもの、チョコはそれで一つ、何か完結しているという感じがあっていい。特に板チョコ。それから、体を動かす。夕方は負荷をかけるトレーニング。あと、聴く音楽もシンプルにしていく。有り余る選択肢はどうしようもない不満足だけを連れてくる。満たされないと思うのは選ばなかったあれこれがチラついているからだろう。

あ、あとシャワーを浴びたり、歯を磨いたりする。顔を洗う。サプリメント、プラシーボを飲み込む。髪型を少し変えても気分は変わる。最近は前髪を上げてる。あと横を少し短くしてみたい。あーあとメガネも変えたいな。ちょうどいい太さの黒のチタンフレームと、グレーのセルフレームが欲しい。高級な服とかもいい。ちょうどいいサイズで、ストレスのない生地と、あと主張の少ない色。大きくて気持ちのいい選択肢、そのいくつかだけで充足させてくれるようなもの。そういうので生活したい。

最近なんだかまたタバコを吸いたくなってきた。甘酒とか、梅酒とかも飲みたい。雪国の温泉などもいい。あと、全然知らない人のエッセイとかも読みたい。女の人が書いたものならなおいい。

ドゥルーズなんて引っ張ってくるのは無粋なんだろうけど、節制とか規律とかを色々考えていると、こんなのを思い出した。

哲学者が禁欲的な徳――謙虚・清貧・貞潔――をわがものとするのは、およそ特殊な、途方もない、じつのところ禁欲とはほど遠い目的にそれを役立てるためなのだ。謙虚も清貧も貞潔も、いまや〔生の縮減、自己抑制であるどころか〕ことのほか豊かな、過剰なまでの生、思惟そのものをとりこにし他のいっさいの本能を従わせてしまうほど強力な生、の結果となるのであり、そのような生をスピノザは〈自然〉と呼んだのだった。スピノザのいう〈自然〉とは、必要〔需要〕から出発してそのための手段や目的に応じて生きられる生ではなく、生産から、生産力から、持てる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きられる生のことである。謙虚も清貧も貞潔も、まさにみずからが〈大いなる生者〉として生き、われとわが身を、あまりにも誇らかな、あまりにも豊饒な、あまりにも官能的な原因のための一神殿と化す、彼(哲学者)一流のやり方だったのだ。

こんな大そうなものでは僕の場合ないけれど、確かに節制というのもまた何かを手に入れるための欲の現れに過ぎないというか、習慣的な節制はむしろ生活を気持ちよくさせるという実感が最近はある。毎日が楽しいとかそういうことではない。

とにかく、体を強くして、生活を整える。清潔にして、人には優しく。できるだけ笑っていたい。あと目を見て話したりとか。一つ一つの動作をゆっくりする。ゆっくり話す。

映画だとか小説だとか、色々。現実がスカスカになってくると、外側に充実感を求める。物語とかその中での世界観は、空っぽを埋める代替物となる。キャラクターたちは、何かに夢中になっている。そういえば僕は本を読むのが好きなのではなく、あのフォントを目でなぞって紙を動かすのが好きなだけかもしれないと小さい頃考えたことがあった。生活していく中で触ったり使ったりするモノとか街の風景とか、見ていると不思議な気分になったり、ふわふわしたことを考えたりしてしまう。忙しかったり、体が辛かったりするとわからない。でも気分がいい日は、喫茶店の匂いとか音とか人の声、スプーンの形とか靴の重さとか、そういうモノに少し嬉しくなって人間が愛おしくなったりする。

 

生活の全てが一点に向かうような熱中を僕はまだ探している。社会はやっぱり関係ない。どうにでもなる。別に中東かアジアの端っこで、薄汚れた生活をすることだって構わない。なんとなく目の前に横たわっている生活。同じような場所にいると、ずっと現実が続いていくような気がする。なんだかほんとうの事とは全く関係のないものに時間を投げているようで、心臓がギュッとなる。

これでいい、と思える生活はどこかに転がっているのかな

 

とにかく、明日は近所のベトナム料理屋にいく。それから生卵を買って、卵かけご飯を食べたい。