DIARY

パラダイス銀河

#003

余命宣告をされたとして、死刑執行を待っているとして、僕はこの生を再評価するだろうか。それは、事実ではなく、起こりうる未来として。これからの出来事に対しての現在。僕にとって目の前に横たわる現実は、未来への伏線にすぎないということ。今この瞬間を生きるということは存在そのものの不可解さを直視するか、さもなくば自暴自棄になることなのだ。創造、例えばアートなんて、それは黙っていられないから吐き出してしまうマスターベーション。落ち着かせたり、孤独を紛らわせたり。この瞬間、というものに対する方向という点でのみ芸術活動は僕にとって価値がある。時間軸のずっと先の方に、僕たちの人生のスタート地点が見える。僕はこの一生を使って、人生を始めるための準備をしている。ないがしろにされる現在。この消費が関わっているのはふわふわした妄想への忠実性であって、本質的な、少なくとも僕にとってそう見えるものとは程遠いところにある。

環境と気持ちのいい感情がないと、全てが澱んで見えてくる。僕はどうぶつ。気持ちが良くないと、生活がうまくいっていないと、自分勝手に薄っぺらいエゴを振り回しては陶酔を繰り返す。酔ってるふり。ぜんぜん楽しくない。

 

#001

再開した。

色々と紙書いていてもなんだか整理できない。ので、繋がった文として留めたい。紙に文字を書く作業がまた億劫になってしまった。

生活を整えていくと、積み上がっていくような充実感が、薄い自己肯定と共にやってくる。たとえば、ルーティンを作る。食事をシンプルにする。ビタミンとタンパク質、それから少しの炭水化物。甘いものは飲まない、あ、でもココアは飲む、それからコーヒーと紅茶。でも基本的には水ばかり。甘いもの、食べるのはチョコレートだけ。単純なもの、チョコはそれで一つ、何か完結しているという感じがあっていい。特に板チョコ。それから、体を動かす。夕方は負荷をかけるトレーニング。あと、聴く音楽もシンプルにしていく。有り余る選択肢はどうしようもない不満足だけを連れてくる。満たされないと思うのは選ばなかったあれこれがチラついているからだろう。

あ、あとシャワーを浴びたり、歯を磨いたりする。顔を洗う。サプリメント、プラシーボを飲み込む。髪型を少し変えても気分は変わる。最近は前髪を上げてる。あと横を少し短くしてみたい。あーあとメガネも変えたいな。ちょうどいい太さの黒のチタンフレームと、グレーのセルフレームが欲しい。高級な服とかもいい。ちょうどいいサイズで、ストレスのない生地と、あと主張の少ない色。大きくて気持ちのいい選択肢、そのいくつかだけで充足させてくれるようなもの。そういうので生活したい。

最近なんだかまたタバコを吸いたくなってきた。甘酒とか、梅酒とかも飲みたい。雪国の温泉などもいい。あと、全然知らない人のエッセイとかも読みたい。女の人が書いたものならなおいい。

ドゥルーズなんて引っ張ってくるのは無粋なんだろうけど、節制とか規律とかを色々考えていると、こんなのを思い出した。

哲学者が禁欲的な徳――謙虚・清貧・貞潔――をわがものとするのは、およそ特殊な、途方もない、じつのところ禁欲とはほど遠い目的にそれを役立てるためなのだ。謙虚も清貧も貞潔も、いまや〔生の縮減、自己抑制であるどころか〕ことのほか豊かな、過剰なまでの生、思惟そのものをとりこにし他のいっさいの本能を従わせてしまうほど強力な生、の結果となるのであり、そのような生をスピノザは〈自然〉と呼んだのだった。スピノザのいう〈自然〉とは、必要〔需要〕から出発してそのための手段や目的に応じて生きられる生ではなく、生産から、生産力から、持てる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きられる生のことである。謙虚も清貧も貞潔も、まさにみずからが〈大いなる生者〉として生き、われとわが身を、あまりにも誇らかな、あまりにも豊饒な、あまりにも官能的な原因のための一神殿と化す、彼(哲学者)一流のやり方だったのだ。

こんな大そうなものでは僕の場合ないけれど、確かに節制というのもまた何かを手に入れるための欲の現れに過ぎないというか、習慣的な節制はむしろ生活を気持ちよくさせるという実感が最近はある。毎日が楽しいとかそういうことではない。

とにかく、体を強くして、生活を整える。清潔にして、人には優しく。できるだけ笑っていたい。あと目を見て話したりとか。一つ一つの動作をゆっくりする。ゆっくり話す。

映画だとか小説だとか、色々。現実がスカスカになってくると、外側に充実感を求める。物語とかその中での世界観は、空っぽを埋める代替物となる。キャラクターたちは、何かに夢中になっている。そういえば僕は本を読むのが好きなのではなく、あのフォントを目でなぞって紙を動かすのが好きなだけかもしれないと小さい頃考えたことがあった。生活していく中で触ったり使ったりするモノとか街の風景とか、見ていると不思議な気分になったり、ふわふわしたことを考えたりしてしまう。忙しかったり、体が辛かったりするとわからない。でも気分がいい日は、喫茶店の匂いとか音とか人の声、スプーンの形とか靴の重さとか、そういうモノに少し嬉しくなって人間が愛おしくなったりする。

 

生活の全てが一点に向かうような熱中を僕はまだ探している。社会はやっぱり関係ない。どうにでもなる。別に中東かアジアの端っこで、薄汚れた生活をすることだって構わない。なんとなく目の前に横たわっている生活。同じような場所にいると、ずっと現実が続いていくような気がする。なんだかほんとうの事とは全く関係のないものに時間を投げているようで、心臓がギュッとなる。

これでいい、と思える生活はどこかに転がっているのかな

 

とにかく、明日は近所のベトナム料理屋にいく。それから生卵を買って、卵かけご飯を食べたい。