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DIARY

パラダイス銀河

#015

晴れ。僕がいるところから雲は一つも見えない。

部屋の窓からは木漏れ日が落ちている 。

 

先のことばかりを考える。いつか訪れるはずの理想的な時間のために現在を耕しているという認識が僕を慰めたり、ゆるい幸せをちらつかせたりしている。お宝は今この現在にしかないということを友人に言われて、何だかすごく損をしている気分になった。

 

大き過ぎる欲はコントロールを失って、結局僕だけが人生と関わっていないということになる。決断できないのは欲が強過ぎるか、悟性が足りないからだというのは本当かもしれない。機は熟したりしない。あれでもないこれでもないとやっているうちに人生は終わる。

 

 

生活が整理されて、世界が少しだけノスタルジックに映る。役者は木漏れ日、夕方、ある種の音楽とか温度とか。部屋にさす陽の光と、だらしなく動くスクリーンセーバー。夕方のプールサイド。それらに名前をつけて大事にしまっておいたとしても思い出すことはない。詩情フィルター。それを引き連れて歩くと、やり切れなさだけが残る。 

 

なんとか目に焼き付けようと、ずっとそのシーンの中に立っている。視野の全部で舐めるように見てもなにも手に入らない。美しさに魅せられているのではなく、失いたくないという気持ちに囚われる。景色に参加することができない僕はものごとの平行線を乗り越えて全てを自分のものにしようとするけれど、その場所でじっとしていることしかできない。

 

手に入れてすらないはずのあれこれが目の前に現れて喪失感だけを残して消える。僕だけがおぼえている。この一幕と共にフェードアウトしたいと願う。

 

生活の中で印象的なシーンに出会うたびに何かがプロットを動かしているような気分になるけれど、それは錯覚なのだ。物語は過去になってはじめて紡がれ、理解される。現在にぼくの居場所はない。ただ見ているだけで、それが後ろに流れるとき僕は生き生きと役柄を演じ始める。

 

 

過去の自分を振り返る。二つの視点が介在することで初めて人生は把握される。当事者として呼吸をする現在の僕はその残像を追うよう生きている。同じ場所を踏んで、同じ景色を見ようとするけれど、僕はそこにはいない。

 

 

 

 

#014

天気のいい日、木陰でタバコを吸う。

 

真っ白なコーヒーカップ。真っ黒なコーヒー。

背中が暖かくなってくる。風が影を揺らしている。

 

車を運転する。ブドウ畑がずっと続く。窓を開けて手を出しても大丈夫。ダイエットコーラの350mlが好きなのだけれど、昨日の残り。それのぬるいやつを飲む。まっずい。スピーカーからの早い音楽が信号を無視して抽象する。

 

 

部屋が散らかってきた。そらは怠惰を許しているのではなくただ僕を甘やかしているのだ。ラムの空き瓶。底に溜まった吸殻。ビタミン剤。百科事典。チャックの壊れたビニールのジャケット。

 

生活の輝きは、どういうことか、この不透明から来ている。

存在の理由が見当たらないこと。理解を許さないものごと。不可解。それこそがまさに生活を彩り、尊いものにする。わからなさこそが、そのエネルギーの発信源だった。アクセルを踏む感触も、暖かいカップを受けとる時少し触れる指先も。僕が死ぬことの確信から踊るように逆算されて初めてそれが浮かび上がる。そのシーン。積み重ねる生活の全ての瞬間。それぞれが意味をもつ。それぞれが僕を通して始まりと繋がる。僕の終わりを匂わせて、その物質は、それぞれはそこにあって、それは今この瞬間に、そして大きく広がる。

 

誰も知らない。僕たちが一体何なのか。静かにじっとしていると四肢の重みが家具に乗る。接着しているところから僕が始まっている。

全てを知っているように、これから何が起こるかその眼の奥で知るように僕たちは歩くし、話すし、動くし。

 

ずっと前の原因まではそう遠くない。空っぽなペットボトルの先で焦点を失う景色からでもそれは少しずつ見えてきたりする。

 

ものごと全ての混乱を抱えて景色に写す。驚きとおおきくて気持ちのいい波が始まる。生活はそれの折り重りなのだ。疑問が諦めに変わるとそれらは答えを嫌うだらしない視点になる。それは極彩色の分厚いフィルターへと変わり僕のレンズとなり、生活は色とりどりに輝き始める。意味が全部消え失せて、気持ちも擦り切れて、人間生活のお粗末なカラクリが無残に、その骨組みが晒される、それでも僕は楽しくなる、喉を通る冷たい水、大きく吸い込む空気、汗でぬれたTシャツ、動いて、全部わからなくなって、気持ちよくなる。全部捕まえようとして僕は全部取り損なう。

 

人が話すのを見る、書いているのを見る、動いているのを見る。僕たちはじっとしてられない。器官が理由を作り、1日を真っ当に浪費する。つまらないことを考えず働いたり、恋をしたり、酒を煽ったりするのが本当の楽しみ方なのだという。回り回って僕も賛成。大賛成!

 

 

 

 

 

#013

221Bという表札。僕はここに住んでいる。

例の名探偵が住んでいた部屋番号と同じなのだ。だからと言って何というわけではないけれど、一回生の時数学基礎で知り合ったイギリス人が部屋へ来た時にひどく喜んでいたので思い出した。ベイカーストリートには今やチェーン店が並んで、霧の都の面影はどこにもないらしい。

 

宇宙のどこにもこんな場所はない。街灯は輝いている。通りの角にはカフェの光が落ちて、陽気な音楽が流れ出している。人々は歌って、踊って、酒を飲む。冷たくて、暴力的で、意味なんて見当たらないこの真っ暗な宇宙の中でも、人の街にだけは光がある。つまりこんな場所は火星や木星にはないということ。受け売りの言葉だけれど。

東京にいた時にも同じことを思った。通りを歩けば、電飾が白い体に映る。100年もすれば笑ったり泣いたりしているこれら全ての、大勢のぶよぶよした塊は消え去って、似た形をした全く新しいものが湧いて出てくる。人間としての時間は、何もないところからポツリと降って来たものではなくて、物事が一時的な集合をして世界を写す装置を作り出しているように感じる。

 

 

死刑台を登るとき何を思うだろうか。一時間後 、世界はもうない。これまで慣れ親しんで来たあらゆる物事が、綺麗さっぱり消え去る。それもわからない。

物理的な作用が、最も現実的なやり方で彼の全宇宙を消しとばすのだ。

例えば縄を首にかけられる時、家族で行ったレストランのたらこスパゲティの味とかを思い出すだろうか。死の瞬間直面する現実も、本質的にはそれらと何も変わらないはずなのに別の世界の出来事のようなのは、死があたかも有から無へ、僕の存在をひっくり返してしまうように思えるからだ。

僕は最も現実的なうちに死ぬ。その現象は、単に物質の変化だともいえるかもしれない。全存在を一枚の絵画に例えた人間がいたけれど、それがディスプレイだとしても、僕が死ぬと言うことは、僕の居場所である一つのドットが、その色をかえると言うことだけなのだ。僕は死んでもどこにもいけない。消えたりはできない。ただ存在を自称できなくなるだけで、それを構成していたあれこれは、無に変わったりはしない。

存在を自称できるのは人間の特権だと思う時がある。思い上がりなのだろうな。

 

 

 僕は時代の上に立っている。空騒ぎに便乗するには、忘れないといけないことが多すぎる。酔っているのは僕なのか景色の方なのか。それは同じこと。遠くの絶望をわざわざ捕まえにいこうとするのは、性癖みたいなものなのだと言われた。生きることに意味がないのが問題なのではなく、生きることの意味に意味などないことが問題なのだ。

 

今まで必死になって意味を消してきたのは、それは何かを諦めたいからなのか、正しいことを知ることがもう叶わないと感じたことの裏返しなのかは、わからない。

それでも価値を置いていたあれこれは全部清々しいほどにフラットになって、生活はどんどん奥へと引っ込んで行った。しかしその作業もほとんど終わったらしい。物事に対して不感症気味になったのはそのせいだろうか。書きたいことが見当たらないのもそのせいだろうか。

何一つとして正しいことは言えない、言い切れない。だから答えを出さない。YESともNOとも言わないことが一番誠実だと僕は思っているけれど、疑っているうちに落としどろこを見失う。居場所はどこにもないのだと。どこにいても落ち着かない、何をしていてもわからなくなってくる。これがこうである理由。僕がここにいること、物事が目の前に広がっていること。

 

かもしれないというあらゆる可能性を均等に扱っているうちに、進むべき方向も失う。

 

 

もっと新しく、ダイナミックに見方を変えらたなら、生活をおおう虚無感は、むしろ世界は満たされていると叫び始めるだろうか。

 

 

#012

ラッキーストライクを一箱もらった。

 

ラッキーにストライクするタイミングがこの先の未来に横たわっている、なんてことはない。現在を犠牲にしないことには能天気な希望的観測が最終的に僕を絞め殺すだろう。生活は難しい。

 

 

"The artist's job is not to succumb to despair but to find an antidote for the emptiness of existence"

昨日見た映画のワンシーンで引っかかったセリフ。芸術家の仕事は存在の空虚に敗北することではなくそれに対する緩和剤を発見することなのだという。目を背けて明るく愉快にやっていこうなんて姿勢の方がよっぽど敗北なような気もしたのだけれど。どれだけ生き辛くても虚無感からは目をそらさず、その上何か能動的な意志を作り上げていくのだみたいなニュアンスなのだとしたらそれこそ超人だ。そんな奴は神をも殺してしまう。

時代性だろうか。

 

イヤホンをLとR反対につけてみた。いつも聞いている音楽が少し違って聞こえてくる。小さな変化が少しだけ嬉しい。何かを忘れてもいいのではないかと思い始める。

 

 

 

 

 

 

僕はついに選ばれなかった。これが何かのきっかけになればと思う。

 

 

#011

毎週土曜の午前中は、街の中心でファーマーズマーケットが開かれる。2週間ほど渋っていた雨雲がようやく動き出した。昼頃にはずいぶんと暖かくなってきたので上着を脱いだ。晴れると生活に色彩が戻るというか、彩度がぐんと高くなる感じがする。トマトが反射してすごく赤い。「すごく赤い」なんてよくわからないけれど。

カラフルな作物。コーヒー豆、はちみつ、大きなイチゴ。それからいびつな形をした陶器なんかもあった。みんな笑っている。大きな荷物を抱えて道を横切る人。ベンチに座って絵の具を売る老人が何やら話している。それを聞いている若い女の人。

通りを歩く。もうこの街に住んで短くはないのに、知らないところがたくさんある。知らない人たち、入ったことのない店、見たことのない風景。賑やかな音楽がどこかのバーから流れてくる。理髪店で髪を切っている人。何を話しているのだろう。

古本屋でヘミングウェイの’移動祝祭日’を買った。4ドル。

 

物語はひとりでに展開していったので、それに歩調をあわせて書いてゆくのに、私は苦労していた。もう一杯ラム酒セント・ジェイムズを注文した。そして私は目を上げるたびに、あるいは鉛筆削りで鉛筆を削るたびに、その女の子を見つめた。鉛筆の削り屑は、くるくる巻いて、私の飲物をのせてある台皿の中に落ちた。

 美しいひとよ、私はあなたに出会った。そして、今、あなたは私のものだ。あなたがだれを待っているにせよ、また、私がもう二度とあなたに会えないにしても、と私は考えた。あなたは私のものだ。全パリも私のものだ。そして、この私はこのノートブックとこの鉛筆のものだ”

 

とても僕一人では抱えきれないような、捉えきれないような生活の輝きが僕の周りにはある。手が届く範囲の、目に見える範囲にでさえ、ほとんど無限とも思えるような幸福への可能性が開かれている。スピーディーに、あるいはゆったりと、それらは生活を横切っている。全てを目で追っているうちに、理解と、把握を夢見ているうちに、僕がかろうじて触れられたのは残像みたいなものだった。捉えようとして、その全てをすくい損なう種類の人間。どうしようもない欲が、通りの隅々まで染み渡っていく。

僕の重さが伝わるところの上には、いつでも僕がいる。消えて粉々になっても、それは変わらない。消滅なんてできないというわけだ。瞼を開くだけで、見えない地平線にまで僕の人生が届く。

 

 

それにしても今日は綺麗な人とよく会う。「新しく鋳造した貨幣みたいに新鮮な顔」とヘミングウェイは形容している。だらだらとしたパラフレーズが、少しの倦怠感を連れて横たわる。

 

 

#010

 

夢を見た。

弟の子供に懐かれる。僕はすごく眠たくて、なんども寝ようとするけどリビングが賑やかで眠れない。母親に「一緒に遊んであげなさいよ」と言われる。小さな子供がテレビにかじりついている。僕は「我が闘争」の下巻を読み聞かせている。ヒトラーのカリスマ性の2パーセントくらいはあのヒゲにあったかもしれないとう話をいつか父親としたことがある。

 

久しぶりに夢を見た気がする。目覚めが悪い。シャワーを浴びる。妙に筋肉がついた。暗い気分から逃げるように無理やり体を動かしていたせいかもしれない。

 

昼。同研究室の人と話をする。引用がやたらに多い。二十歳がひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとはだれにも言わせまい、と言ったのが印象的だった。

 

大学のロビーで以前親しくしていた人と偶然会う。「そっちに座ってもいい」と聞かれた。何も言わず僕がその人の生活から消えようとしたこと、普通にバレていた。あんまり怒っていないみたいだったけれど。今度コーヒーを奢る約束をする。覚えのある匂いがした。

 

ビルの表面からは巨大なディスプレイが湧き出ていて、保険会社の社長の笑顔やいびつな形の自動車のコマーシャルなどがながれている。殆どうつむきながら道路を横切る人たちの顔が、青い光を映して点滅しているみたいだった。

時代の色。火星に住もうとしたり、インターネットが物質になったりする。

 

全て投げ出す。気分はよくなるだろうか。いらないものばかり。捨ててしまう。ガラクタを売って、お酒を買う。セックスをしてタバコを吸って、それからどうでもいい本を読む。ボロボロの、空っぽな家に住む。美味しいものを食べる。まるい形の車を買う。重たいジャケット。

 

カレーライスを食べて水を飲んだ。とても美味しい。

そのものが好き、だなんてことはありえない。水やカレー自体が好きなのではなく、水と僕が好きなのだ。水を飲む僕。ならこの生は?

 

ポップな死。カラフルな自殺。ポップな生は退屈だろうか。それは単色だろうか。みんながパンっと弾け飛ぶ。色とりどりの臓器はカラカラと音を立てて地面に落ちる。

 

ドアに紙がねじ込まれている。”ロストジェネレーションの作家たちについて語り合いましょう”という見出し。サルバドール・ダリの自画像が強引にコピーアンドペーストされている。ヒゲと白目が目立つ。僕はあまりヒゲが生えないタチだ。ところでなぜダリなのだろう。スペイン人だし、彼は失われた世代ではない。

 

芸術家は現代性を取り出してキャンバスに落とそうとしているという話をどこかで聞いたことがある。不思議な感じ。1日中同じ絵を観ている人。

ノートの最後のページの殴り書き。「人間、時代、浮遊感、お祭り、ジャズ、テクノロジー、都市、路地裏、喫茶店、アルコール、友人、美しさ、存在」

 

レコードを買った。ビルエバンス。晩年はほとんど時間をかけた自殺のようだったと伝記に書いてあったことを思い出す。時間をかけた自殺というなら昨日生まれた人間にもそれは始まっているのだろう。「Undercurrent」というアルバム。1962年という表記。アンダーカレント、底流?

一曲目はマイファニーバレンタイン。明るいアレンジだった。

 

 

まだ早いけれど電気を消す。すごく眠い。いいことだと思う。空のペットボトルの底からライトを当てる。壁に模様が浮かぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

#009

日曜。四月。

 

やるべきことなんてないのに、そのはずなのに生活が僕を急かしている。秒針だとか空腹だとか、一日のシーン。僕は引っ張られたり追いかけたりしている。

しあわせが未来に保存されているわけでもないのに、時々それを削っているような気分になるのはなぜだろう。割れ物のように人生を扱っている。

 

日差しが強い。風がある。歩きやすい靴。表通りに人影はほとんどない。中心街まで歩く。今日は祝日、少し賑やかだった。アール・デコ調の建物、カラフルな人たちが吸い込まれていく。古いアイスクリーム店の前でホームレスのおじさんがギターでガシャガシャやっていた。6弦が切れていた。

 

いつもの喫茶店。コルトレーンのJust Friendsが流れている。3ドルのブランドコーヒーを頼んで席に座る。店の人の左腕にアラビア語のタトゥーが入っていること、今日気がついた。隣の席二人組が黒人の社会学者の話で熱くなっている。訛りが強い。女の人がマッチでタバコに火をつける。ラクダのマークのパッケージ。

本を持ってきたのだ。全然読む気にならない。すぐに眠たくなる。壁の模様をじっとみる。僕は別に何もしなくていいのだ。社会も、生活も。義務はない。目の前には漠然と時間が横たわっている。20数年の間に粘土みたいに捏ねあげられた僕の傾向がそれらをむさぼる。僕は自由を幻視している。このままエレベーターで最上階まで行って飛び降りる選択、隣の人に話しかける選択、大学に寄って退学届を出してどこかへ旅に出るという選択。僕が選んだのはiPhoneで明日の予定を確認してやらなければならないことをリストアップするというものだった。つまらないだろうか。波風を立てないように慎重に駒を進めていくうちに、右にも左にも後ろにも、斜め右前にだって一歩を踏み出せるということを忘れてしまう。ぼくの自由は記号の奥へと消えていき、人生はゆっくりと固定されていく、均一が見えてくる。出所のわからない不安。

 

ある種の感情を生活のあちこちから引っ張り出そうとしている。少し前までは自然と向こうからやってきた感じだった。月並みな言い方をすると、何かが在るということの不可解さ、あるいはヒミツみたいなものなのだけれど。目の前の光景の中に規則性が浮いてくるとき、物質の傾向とかを垣間見たとき、少しだけそわそわする。

借りていた本を返しに友人宅へ。部屋へ案内される。セックスした後の匂い。散らかっている。積み上げられた本。マルクス、レーニン、デュールケーム、フーコー、カミュ、シオラン、それから英訳版のノルウェイの森なんかもあった。スノッブを自称する僕の友人。水タバコの煙で表情がよく見えない、目にしみた。

 

どこに行ったって何をしたって目の前の景色を直視することはできない。わからない不安。選んでこなかった選択肢が胸焼けを起こさせる。みぞおちあたりがすごく重い。もらった瓶ビールを飲んだ。字を目で追いながら他のことを考えている。切れかけている蛍光灯、ホワイトボードに書かれた購入品リスト。行ったこともない街のこと。40年前のパリだとか。

 

どこか別のところからつまみ出されてここにいるのではないかと感じる。人生は一直線に映っているはずなのに、ありもしない幸福の可能性や自由への幻想が僕の頭に安っぽいの羅針盤を作り上げた。空っぽの球体の中心にいるような気分になるのはそのせいだと今は思う。どれだけ考えても、何を感じても、ずっと待ち焦がれている大きな納得感はやってこない、世界は整理されない。透明の秩序が僕を乗せて現実を駆け抜ける。僕は何なのか、どこにいるのか、何をするのか、なんで動くのか、なんでこんなもの食べてるんだ、全然わからない。なんで歩いているんだろう、どこに向かっている。なんでこの人の後ろを歩いているのだろう、なんで。

 

書きたいことはこんなことじゃなかったと思う。道の真ん中をサンダルで歩いたこととか、太陽の光で気分が良くなったこととか、そういうこと。

 

ぞくっとするような世界の秘密は多分もっとも現実的で、退屈なんだろうなって思う。でもそれでいいし、それがいい。ぜんぶが束になって一箇所に集まって、僕はそれを掴んで意気揚々と歩き始める。そういう一日にたどりつくことを妄想したり、しなかったり。